● タイタニック号は計画的に、故意に沈められた?! ●
前ページでも記した通り、タイタニック号に瓜二つの姉妹船であるオリンピック号は何度も事故を起こし、修復はしたものの当時の造船技術では耐久性能は格段に下がってしまい、使い物にならないほどの損傷を受けていたため、完成からほんの数ヶ月で、すでに保険も受けられない無保険状態になっていた。
ホワイト・スター社は、オリンピック号の事故の賠償責任も問われる一方、船の建造費用の回収さえメドがつかず、経営不振に陥っていた。
そこで、〔窮地に立たされたホワイト・スター社が、外観がそっくり同じタイタニック号とオリンピック号をすり替え、タイタニック号(実はオリンピック号)を氷山に正面衝突させ、タイタニック号にかけられた多額の保険金を受け取るために、計画的に沈めた〕という説が囁かれているのだ。
まったく大胆な陰謀説で、にわかには信じがたいが、まずは、下の写真を見比べてみてほしい。
※ 写真↓ タイタニック号

※ 写真↓ オリンピック号
− 別の写真でもう一度 −
※ 写真↓ タイタニック号

※ 写真↓ オリンピック号

− ついでに内装も見てみましょう −
※ 写真↓ タイタニック号

※ 写真↓ オリンピック号

↓ どっちの写真かわからないポストカード ↓

↓ どっちがどっちだか分からないツーショット ↓

重くなるのでこのへんでやめておきます。
これら2隻の姉妹船は、まさに瓜二つで見分けがつかないほどであり、当時の写真などでもよく取り違えて紹介されていたという。
保険金詐欺・陰謀説というのは、非常に大胆な推測で、まるで現実感がないように感じるが、この2隻ならば、船名の塗装部分を変えるだけで容易にすり替えが可能だったはずである。
オリンピック号がドックで修理を受けていたのは、ちょうどタイタニックの航海直前であり、この2隻は同じドックで並んで修理を受けていた。すり替えのために船名の塗装を塗り替えたのだとしたら、多分、この時行われたものと思われる。
また、完成当時お披露目された時のタイタニックの写真と、処女航海に出発した時の写真を見比べると、窓の数が違っているのが確認されており、その他にも「タイタニック号は出港直後から傾いていた」との証言もある。
さらに事故後の調査では、衝突後に船を救う為の処置がほとんど行われた形跡が無かったことが分かっており、はじめから処置を放棄していたようにも見えるのだ。
そして、不可解なことにタイタニック号の資料は設計図も含め、そのほとんどが残っていない。図版として現存するのは、すべてオリンピック号のものである。
なにより不可解な点は、使い物にならないほど耐久性能が落ちてしまっていたはずのオリンピック号が、その後23年間も就航していたという事実である。
しかも、第一次大戦中の1918年、オリンピック号は驚くべきことにドイツ海軍のUボート・U103の魚雷攻撃をかわし、果敢にも体当たりで攻撃した。
結果、体当たりされたUボートの方が沈没した。
これはすごい。耐久性能抜群である。
また事故後の査問会においても、造船所側、設計者、乗員をはじめとした証言者の言動には買収の疑惑が囁かれるほど不自然な点が多くあるという。
中でも、双眼鏡がなかったため氷山の発見が遅れたという点においては、途中までは見張り台にあった事が確認されており、これについては、デビット・プレイヤー二等航海士がこのように証言している。
「途中立ち寄ったサウザンプトン港で下船する際、双眼鏡は二等航海士船室の引き出しに仕舞い込んだ」 ― しかし、その後、その双眼鏡は行方不明になっているのだ。
もちろん、船にあった双眼鏡はそれ一つだけではない。
双眼鏡は合計4つあったといわれているのだが、不思議なことにその4つすべてがなくなっていたのだ。これを偶然で片付けるには無理がある。
ちなみに沈没現場の調査では、これらの双眼鏡は見つかっており、海底から引き上げられている。事故当時、双眼鏡は、たしかに船内にあったのだ。
見張り役の内の一人であったフレデリック・フルートは、事故から生還し証言台に立ったが、彼の態度は固く、「衝突直前まで氷山には気がつかなかった」の一点張りだったという。
しかし、のちの調査結果では、フレデリック・フルートは、実際には衝突の30分前から氷山を確認しており、そのことをブリッジに報告したにもかかわらず、重要視してもらえず、報告はなぜか無視されていたのだ。
そして、その事実について黙秘する見返りとして、彼は、ホワイト・スター社から多額の金を受け取っていたため、証言台では黙っていたのだという。
このフレデリック・フルートは、1965年に自殺している。彼のこの後日談は、1993年になって、タイタニック号沈没にまつわる新事実として発表された。
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