タイタニック号の悲劇は本当に事故?

タイタニック号沈没にまつわる黒い噂


1912年4月10日
当時「不沈船」とまで呼ばれ、世界一とまでいわれた豪華客船『タイタニック号』は、2220人以上の乗客を乗せて処女航海に出発した。
しかし、イギリス・サザンプトン〜アメリカ・ニューヨークへの航路の途中、氷山に衝突。


1912年4月15日未明 ― 沈没。

世界一の豪華客船・タイタニック号の処女航海は、1517人もの命を飲みこむ世紀の大惨事となって幕を閉じた。

しかし、この悲劇的な事故については、当初から様々な謎があったといわれる。
事故当時から記録として残っているものの中から 疑わしいものを挙げていくとあるひとつの推測にいきつくというのだ。
事故から100年余り経つ現在、公然と囁かれる
黒い噂とは・・・


 アメリカ屈指の金融財閥/J.P.モルガン社の創設者 


タイタニック号の実質のオーナーは、このJ.P.モルガン氏である。

タイタニック号の事件で一躍有名になったホワイト・スター社は、このJ.P.モルガン氏が所有する会社が吸収した子会社であり、社長・イズメイ氏は単なる雇われ社長にすぎなかった。
ホワイト・スター社の経営方針そのものは、すべてこのモルガン氏が掌握していたのだ。

そのような関係上、当初はモルガン氏もタイタニック号の処女航海には乗船する予定だったのだが、なぜか急遽キャンセルし、事故当時、船には乗っていなかった。
さらに、モルガン氏の知人・友人たち55名も同様に直前になってキャンセルしている。
世紀の豪華客船の記念すべきイベントを揃ってキャンセルしたのはなぜだろうか? 


 スミス船長 

タイタニック号の処女航海を最後に引退が決まっていたスミス船長は、一説ではアルコール中毒だったといわれているのだが、それまでの彼の航海記録を見ると、それが単なる誹謗・中傷でないことがわかる。

彼には、ホワイト・スター社の船を何度も事故に導いた過去があったのだ。
となると、やはり疑問が生じないだろうか?
タイタニック号は、ホワイト・スター社が社運を賭けて建造した超豪華客船である。
その船を預ける船長に、よりにもよって、なぜそんな男を選んだのだろう?
どうにも解せない。


● 消えていた双眼鏡 ●

タイタニック号
実は、タイタニック号の中では双眼鏡がなくなるという事態が起きており、氷山を避けられなかった大きな原因の一つとして指摘されている。


なぜそんなことが起こったのか?


● 再三の氷山警告を無視 ●


タイタニック号は、その航海途中に何度も他の船から発信された氷山警告を受信していた。しかし、ホワイト・スター社の社長・J.ブルース・イズメイ氏は、それを開示しようともせず、隠していた。その中でも、親切に2度も警告を発信してくれたカリフォルニア号に対して、2度目には、なんと
「やかましい!黙れ!」と、返答したという。

おかげで合計6〜7回受信した警告の内、まともにブリッジに届けられたのは、信号灯で返礼したのが確認された1回だけだったという。


● ヒッチンズ操舵手 ●

ヒッチンズ操舵手は、事故後に行われた事故調査会の証人喚問で492個もの証言をした。
彼は救命ボート:6号ボートの指揮を任されていた人物である。
その後、彼は南アフリカのケープタウンで港湾長として働いていたのだが、ある時、彼を訪れた友人にこんな打ち明け話をしている。

「『タイタニック号での出来事を他言しなければ港湾長の職を与えてやる』と、ホワイト・スター社が約束したんだよ。そして、『その代わり、ずっとケープタウンに“
幽閉”する』とね」


● 航行速度の謎 ●


当時、氷山警告に対して取った行動が速度を落すどころではなく、むしろ最速で航行していたことは大きな謎だと指摘されている。
これに対しては、よく『最速記録を作りたかったからだ』というのが理由に挙げられているが、これについては疑問が残る。ちなみに以下は、
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用である。

「ホワイト・スター社は、当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン競争」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。」

そうなのだ。ホワイト・スター社は、もともと速度を重視した船を作る会社ではなかったし、
これは、社長をはじめ誰もが知っていたホワイト・スター社の方針である。

それでなくても、ホワイト・スター社は創立以来、不祥事の絶えなかった会社で、立て続けに事故を起こしていた。スピード競争などよりは、居住性や安全性に重きを置いてきたはずなのだ。

― ホワイト・スター社設立からタイタニック号建造までの歩みを以下に列挙してみよう。

1845年  ホワイト・スター社設立
1864年  「ロイヤル・スタンダード号」  氷山に衝突。酷い損傷を受けたが、何とか帰港。
1873年  「アトランティック号」 

 悪天候のため座礁。沈没。

 この事故で乗客・乗員1000名中546名が死亡。

1893年  「ナローニック号」  航行中消息を絶ち行方不明となる。
1899年  「ジャーマニック号」  原因不明の沈没。
1907年  「スエヴィック号」  座礁。
1909年  「リパブリック号」

 他の船と衝突。沈没。

 救助が早かったため死亡者は数名に留まった。

1911年6月  「オリンピック号」

 処女航海への出港直後タグボート(ヘーレンベック号)を

 巻き込み沈没させかけた。(船長:スミス船長)

1911年9月  「オリンピック号」

 巡洋艦「ホーク」と衝突。酷い損傷を受け、同年11月末

 まで運行不可能に。(船長:スミス船長)

1912年2月  「オリンピック号」

 復帰したものの、またまた海上で障害物と衝突。

 スクリューが一つ脱落してしまう。このことにより
 オリンピック号は、わずか8ヶ月にして無保険状態を
 余儀なくされた。

 保険が失効したため莫大な修理費が捻出不可能に。

1912年2月  「オリンピック号」

 上の事故から二日後、航行先で乗客の1人が転落し

 行方不明に。


タイタニック号の姉妹船で(タイタニックは2番船に当たる)、ほぼ同じ設計・内装・備えけた食器類までもが全く同じ豪華客船。(これにもう1隻の姉妹船「ブリタニック号」を含めた合計3隻が北大西洋航路用として設計された旅客船だった)
  

 

以上の事故で、不沈船と同じ造りの姉妹船が何度も航行不能に陥っているのがわかる。
これを見ると、
「不沈船だという過信があったから、最速航行していた」という
言い訳には疑問をおぼえる。これだけ事故を繰り返したあとであれば、
過信するどころか、むしろ以前より慎重になるものではないだろうか?
 



1912年2月のオリンピック号の事故から2ヶ月後の4月10日にタイタニックは処女航海に出発した。しかし、実は、
タイタニック号は出発前からすでに事故を起こしていた。

4月1日 ― 第10石炭庫の右舷側(氷山が衝突した側)で火災が発生。
その火は、なんと沈没の前日・4月14日まで消えずに
13日間も燃え続けていたことが分かっている。  こんな会社だから不祥事が絶えなかったんだな、きっと。

近年、海底の船体を調査した結果、“船内で何かが爆発したとしか考えられないような(中から外へ向けての損傷した)穴”が空いていた事が明らかにされた。
このような重大な事実さえ隠蔽され続けてきたことは、まさに驚きとしか言いようがない。

 

このような数々の謎の「点」と「線」を結ぶと、その延長線上には、一つの確信とも言える推測が浮かびあがるという。 その全貌とは?

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