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宦官発祥の経緯 ●
宦官とは古代の宮廷や後宮に仕えた官吏(国家公務員の旧称)のことだが、もともとは刑罰として去勢(宮刑・腐刑)された男性奴隷が、のちに皇帝の身の回りの雑用や後宮の管理をする使用人として宮廷に仕えるようになったのが始まりといわれている。
宮廷のプライベートな部分に関わるポジションであることから、皇帝やその寵妃たちに重用され、引き立てられ優遇される者もいた。※写真は〔太藍(宦官)の集合写真〕(北京市:宦官文化陳列館蔵)
皇帝の寵愛を後ろ盾に権勢を誇る者が出てくるようになると、宦官は出世の手段として人々に認識されるようになり、宮廷でのサクセス・ストーリーを胸に宦官を志し、自主的に男根を切除することや、親が子供を宦官にするために去勢してしまうことが人々の間に浸透していった。
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中国史に記録された最初の宦官
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古代中国の商(殷)王朝の遺跡にあった甲骨文字という象形文字の中に、男根切除を意味する象形文字が発見されたことにより、それまで伝えられていた紀元前16世紀頃という説を覆し、紀元前14世紀頃には宦官が存在していたことが明らかになった。
中国四千年の歴史は、宦官の歴史でもあったわけだ。 この事実は、現存する資料が乏しい宦官の歴史において大きな発見となった。

※写真は遺跡から出土した〔男根切除〕を意味する甲骨文字(北京市:宦官文化陳列館蔵)
紀元前14世紀頃の人が大マジメに彫った文字です。この“まんま”すぎる文字のおかげで、歴史的大発見ができたんですねぇ〜。トイレの落書きみたいで親しみが持てます。これなら時代を経ても〔絵〕として伝わりそうです。絵心。絵心。(さすがにこういうのは「オーパーツだ」っていう人いませんね)
● 巨大国家繁栄の裏には必ず彼らがいた
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さて、宦官は古代中国特有の制度だと思われがちだが、実は、古代の巨大国家においては、世界的にポピュラーな制度であった。
一夫多妻制のイスラム諸国のオスマン帝国などをはじめ、オリエント諸国では古代エジプトをはじめアッシリア、ペルシャ帝国、オリエント文化に影響を受けたローマ帝国や古代ギリシャにも宦官は存在しており、その発端は中国同様に刑罰として去勢された者が奴隷として仕えるようになったというもので、その役割も中国同様に後宮に仕える例が多かったという。
どの国でも宦官が皇帝の寵愛を利用して陰の権力者として振舞った例は多く見られるものの、彼らが与えられる役割といえば、所詮、宮廷の雑用や後宮の管理にとどまるのがほとんどだった。
ただし、中には例外もある。
ローマ帝国では、帝国後期を過ぎて皇帝の権力が強まると、高級官僚の世襲を予防する策として宦官を高級官僚に任命し重用することが多くなった。
キリスト教化したために一夫一婦制となり後宮が廃止された東ローマ帝国でも、宦官は官僚として重用されるようになっていった。 又、それにとどまらず、軍の司令官や当時のキリスト教・東方正教会の事実上トップの座であるコンスタンティノポリス総主教まで、東ローマ帝国では、世界的に例を見ないほど多くの宦官たちが国家官僚に任命され、あらゆる高いポストの役職に就いていた。
そうなると、やはり東ローマでも中国同様に自主的に男根を切除して宦官になりたがる者や、将来の出世を考えた親が子供を去勢してしまうケースが増加した。
手段が〔男根切除〕というショッキングなものであるが故に「欲のためにそこまでするか?!」と、現代人が思うのも無理はないが、その時代にあっては、さほど珍しくもない社会的に認知された一つの生き方だったのだ。
時を同じくして東ローマ帝国では、それ以外の理由で進んで去勢を実施する者が続々と出現しはじめた。 キリスト教が普及するにつれ、自ら欲を絶つために去勢する者が後を絶たなかったのだ。
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清代における去勢手術の方法
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三田村泰助氏の著書:『宦官 側近政治の構造』から、清代に行われた手術方法を紹介。
< 手術前 >
@ まず白いヒモ(又は紐帯)で被手術者の下腹部と股の上部あたりを堅く縛って止血を行う。
A 熱い胡椒湯で念入りに消毒を行う。被手術者に手術執行の確認をとる。
これで準備完了!
もちろん麻酔はなし。あとは切るだけ。どひーーッ!
< 手術開始〜終了まで >
@ 執刀者は鎌状に少し湾曲した小型の刃物で、陽根と陰嚢を一気に切り落とす。
A 白蝋の針、または栓を尿道に挿入し、術後の尿道を確保。
B 傷口を冷水に浸した紙で覆い、注意深く包む。
C 2人の助手が被手術者抱えて2〜3時間部屋を歩き回らせた後で、やっと身体 を横たえさせる。
D その後、3日間水を呑まずに寝たまま過ごす。
術後3日後に先に刺しておいた栓を抜くのだが、その時シャーッと勢い良く尿が出れば成功、出なければ失敗で、失敗したら最後、被手術者を待っている運命は死あるのみ。まさに命がけの手術だが、失敗は少なかったという。ほんまかいな。
いずれにせよ、清代といえば17世紀以降である。医学的に発展を遂げる以前の手術はもっと危険だったに違いない。ちなみに、オスマン帝国では、手術を終えた少年たちは傷口を消毒する代わりに、首まで砂漠の中に埋められ、熱砂で傷口が癒えるのを待ったという。あうぅ・・・。

宦官になるのは、主に罪人、自ら望んで志願した者、親に無理やり宦官にさせられた子供、さらわれて売られた子供などだった。
● 宦官デビューの第一歩
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「親方〜!去勢手術してきました〜!」
「おう!もうキズの方はすっかりいいのかい?」
「ええ、トイレにはまだ慣れませんけど、なんとか」
「そうかい!めでてぇ話じゃねぇか!お前も今日から立派な宦官だな、おい」
「晴れて権力者の仲間入りが出来ました。後宮はオレに任せろ!なんちゃって」
「おいおい、ずいぶん気が早えぇな。がはははは」
「あははは」
トンチキである。彼はまだ、ただの〔去勢した人〕でしかない。
「応募資格:性別ナシ」をパスしただけで安定した生活を送れるわけではないのだ。
では、新人宦官は最初に何をすれば良いのか?
中国の宦官をモデルに、新人君のマニュアルなき宦官新人研修を覗いてみよう。
当然のことだが、新人宦官たちは宮廷作法や礼儀などに縁のないズブの素人である。
そのため宮廷での実習以前に、まず礼儀作法を身につけなければならなかった。
それを身につけなければ、宮廷での実習を受けることは永久に許されないのだ。
宮廷のしきたりや礼儀作法をトレーニングするには、“師父”という役目の先輩宦官の中から、自分の師匠を一人決め、見習いとして宦官修行を始めるよう定められていた。
“師父”の役を受け持つ先輩宦官は、例外なく老齢で地位の高い宦官と決まっていた。
位の高い老齢の宦官であれば、「歩く宦官マニュアル」と言っても過言ではないだろう。現場経験が多く、その宮廷知識は豊かで確かである。その証拠に出世して高い地位を手に入れる事が出来たのだ。“師父”の役に就く者は宮廷お墨付きのお手本宦官だといって良い存在だったのだろう。
宮廷の礼儀作法や伝統にのっとったしきたりは、かなりややこしいものであったようだ。
俗世の通念からかけ離れたものであり、ナンセンスともいえる訳の分からない決まりが多い上に、同じ事柄でも、その時々で様式が細分化されている作法があったりで、やっている内に誰でも憶えられるという種類のものではなかったという。
かのブルボン王朝に嫁いだマリー・アントワネットは、フランス宮廷のしきたりの多さやナンセンスさについて「理解できん」と母親のマリー・テレジアに手紙でグチっている。18才で王妃の座につくと、「こんなの必要あんの?」と、結構必要なものまでガンガン廃止してしまう。オーストリア皇女として、しきたりの中で育った人でもこうなのだ。新人宦官の彼らにとっては、挨拶一つもままならない外国に放り出されたような毎日だったのではないだろうか。
新人宦官は、それらを師父から口伝えによってのみ習得するしかなかったため、通常この「見習い」を終えるのだけで何年もかかったという。
きっと、当時の師父にも「お局様」みたいな意地悪がいっぱいいたんだろうなぁ〜。
宮廷社会がそうであるように、宦官たちの社会も階級を重んじたモロ縦社会だった。
自分より上位階級にある者が言うことや決めたことは、間違っていようが、犯罪だろうが絶対に服従なのである。権力の戦場である宮中において、そんなことで泣き言を言うようでは、とても出世など出来ないのだが、一番下っ端に属する新人宦官たちが受ける扱いは、地獄といってもいいほど過酷なものだったという。『上の者には慇懃なほどにペコペコ媚びて、下の者には必要以上にオラオラ威張る』という、卑屈を絵に描いたような人物は現代にもいるが、当時の宦官のそれは、その何十倍も卑屈な人材で構成された世界だったようだ。・・・ぐげげ。
宮廷内においては、新人宦官の階級は最下層である。まだロクな働きをしていないので、事実上、下っ端なのだから仕方ないのだが、「下層階級の者は人間扱いしなくて良い」という階級意識の中で生活するのは、想像以上につらいものだった。
師父にヒステリーの矛先を向けられたり、ストレスのはけ口としてイジメられるのは当たり前。ほとんど当然のように虐待されるのが彼ら新人宦官の宿命的日常だったのだ。
また、儒教の観念においては、『去勢した者=人類の歴史の営みから外れた者』であることから、彼ら宦官は、“人ではない人”といわれ、動物以下の存在と位置づけられていたため、一旦宦官になってしまったが最後、二度と俗世に戻ることは出来なかった。
どんなに酷い体罰やイジメがあろうと、宮廷から逃げ出す事はかなわず、ただひたすら耐え忍ぶだけの日々を送らねばならなかった。そのように、彼らの毎日は大変シビアなものだったが、たとえそれを耐え抜いたとしても、出世できるのはほんの一握りである。それ以外のほとんどの宦官は、安い賃金のみで、まさに奴隷のような働きづめの生活を送るのが常だった。
宦官の道で出世して成り上がり、皇帝の寵愛を受けられるようになれば、大臣や官僚といった宮廷の権力者たちをも牛耳る地位が得られ、更にうまくすれば、皇帝に代わるほどの権力者になることも夢ではなく、高い地位にまで登りつめた宦官にとっては、後宮はこの世のパラダイスともいえる『おいしい場所』だっただろう。しかし最下層の下級宦官にとっては、生き地獄に等しかったかもしれない。阿片に溺れていった者も多かったようだ。そのように、ほとんどの宦官が下級宦官として人生を送ったという。
では、一生下級宦官のまま、出世することなく歳をとっていった者たちはどうなったのか?
まさに、『宦官の末路』ともいえる彼らの老後は過酷を極めた。年を取って病気になったり、勤務に耐えられなくなると、問答無用でただちに宮廷から追い出された。
宦官の数が爆発的に増え、10万人もの宦官を抱えていた明代では、大多数の下級宦官たちが乞食のような姿のまま餓死したという。
宦官になった者は、親族から一族の一員とは認めてもらえなくなるため、一族の墓には葬らせてもらえない慣わしだった。俗世での生活能力がない彼らは、宮廷を追い出されると寺廟に身を寄せ、そこで寂しくひっそりと最期を迎えたが、寺廟に入るにも寄付金やお布施のようなものが必要だったため、蓄えのない貧乏宦官たちは安住の地を求めて放浪したあげくに野垂れ死ぬことになり、餓死や凍死といった無残な最期を迎えたのである。
● 歴史に名を残す超ビッグネーム宦官 ●
下記リンクをご参照ください。
趙高 司馬遷 蔡倫 鄭和
※リンク元『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』
< 参考書籍 >



宦官 側近政治の構造 最後の宦官秘聞 宦官 中国四千年を操った異形の集団