明治維新 ―
幕府が倒れた後、明治天皇を中心に急速に日本の近代国家が築かれた。
『士農工商』などの古い身分制度や封建制度などが次々と廃止され、新しい制度が確立された。
文明開化の動きが高まる中、明治維新は近代日本への出発点となった。
日本が急速に近代化を始めた文明開化のこの時代、民間伝承の謎を解き明かそうと立ち上がった学者がいた。のちに“お化け博士”と呼ばれる井上円了である。
井上円了について語る前に、まず、当時の文明開化とはどのようなものだったのかを簡単に説明しておこう。
■ 明治維新
当時、政府は日本の近代化を押し進めるべく、欧米の制度や技術等を積極的に取り入れた。明治初期には欧米文化の急速な流入により庶民の風俗や衣食住にも大変化がおこった。しかしそれも都市中心でのことであり、西洋文明のうわべだけを真似たにすぎないものも多く、農村部にまではいきわたらなかったという。
■ 生活習慣・その他の主な変化
- 無学な者をなくすために近代的な学校制度が確立された。
- 活版印刷が開始され、新聞・雑誌が急速な発達を遂げた。
- 福沢諭吉らによって西洋の自由・平等の近代思想が紹介された。
- やがて1日24時間制や七曜制も実施された。
- 断髪令が出され、ちょんまげ頭が姿を消した。
- 都市部では,煉瓦づくりの洋風建築が立ち並び、道路の舗装も始まった。
- ランプやガス灯が登場し、洋服に帽子、靴を身に着ける人も増えた。
- 懐中時計やこうもり傘を持つことが紳士のステイタスとされた。
- 牛肉・牛乳・パン・西洋料理などが食生活に取り入れられるようになった。
しかし、いかに近代化を遂げたように見えても、この当時の日本各地にはまだ迷信や祟りといった民間伝承が蔓延していた。
当時の人々は、まだ狐憑きや妖怪、呪い(まじない)や祟りなどを本気で信じていたのだ。
「人の心に文明開化を起こさねば、真の明治維新は訪れない。」
いかに街並みが変わろうと、生活習慣が西洋風に変化しようと、それは見た目だけの近代化である。人々が古臭いオカルティズムを信奉している限り、真に新しい時代はやってこない。
「まず、人の心に文明開化を起こすのだ。」
そう考えた人物が、現在の東洋大学の創始者井上円了である。
「妖怪変化のほとんどすべては迷信なり」
そう断言し、東京帝国大学の哲学教授でありながら怪奇現象を正面から取り上げ、妖怪・迷信を研究・駆逐することに半生をかけた井上円了は、その研究内容から“お化け博士”、“妖怪博士”と人々から親しみを込めて呼ばれた明治の偉大な迷信バスターである。
井上円了は、俗にいう怪奇現象全てを部門別に分類し、日本人がもっている妖怪観を客観的に把握しようと大学の外へ足を向け、日本各地の妖怪をはじめとする様々な不思議現象の実態を調査した世にも珍しい酔狂な偉人である。
● 『妖怪学』発表までの略歴 ●
● 不思議研究会 ●
井上円了が妖怪学に携わったのは、「不思議研究会」の活動からである。
井上円了はこの会の取りまとめ役もつとめていた。この「不思議研究会」には、当時の東京大学の有名な研究者のほとんどが入っていたという。
「不思議研究会」は、日本各地に伝わる幽霊、天狗、犬神、狐狸、予言等の資料を集め、これらについての研究の方向をメンバーが互いに熟知すべしと研究調査を開始した。
● コックリさん ●
『哲学界雑誌』を発行した井上円了は、そこで不思議庵主人というペンネームを名乗り、“コックリさん”の研究を始めた。
“コックリさん”の原因をつきとめた人物としては、物理学者のファラデーが最も有名だが、日本でこの研究に取り組み、原因を究明したのは井上円了である。
― ファラデーによって解明されたコックリさんの正体 ―
「動かしているのは霊なのか?それとも・・・」
日本では“コックリさん”という呼び方をされ、最近は映画でも評判になっていたアレ。
「心霊を呼び出して質問をすると答えてくれる」というアレは、欧米ではテーブル・ターニングと呼ばれている。日本では10円玉などを使うのが一般的だが、欧米ではテーブルを使って行う。
ウィジャー盤という「文字が書かれた板」を使うやり方もあるが、こちらは“コックリさん”と同じ要領。
テーブル・ターニングのやり方と現象は“コックリさん”とほぼ同じである。
数人でテーブルを囲んで座る → 両手をテーブルの上に乗せる → テーブルが傾く、動く、テーブルの足が床を叩く等の現象が起こる (←これが霊の通信らしい)
1853年、電磁誘導の発見などで有名な物理学者のマイケル・ファラデーがテーブル・ターニングを研究した。ファラデーは様々な装置を使った様々な実験を行い、何が原因でこの現象が起るのかをつきとめた。
まずファラデーが確かめるべきだと考えたのは、この2つである。
@ テーブルが自発的に動くのか
A テーブルに置かれた手がテーブルを動かしているのか
テーブル・ターニングを実行していた被験者は、全員、「私は何ら力を加えていません。ただテーブルを真下に押しているだけなのに、なぜかテーブルが勝手に動くんです。」と主張していた。
そこでファラデーは、「もしテーブルが霊の意志によって動いているなら、テーブルが先に動いて、手はそのあとに動くはずだし、人間が動かしているなら、手が先に動き、テーブルがあとに動くはずだ。」と考え、「テーブルが先か手が先かによって振れる“指示器”」を開発。テーブル表面の材質を木やゴムや紙に替えて何十回も実験した。
@ 指示器を被験者に見せないで行った場合 → テーブルは毎回動いた
A 〃
見せて行った場合 → テーブルは一度も動かなかった
結果、どのような条件下で実験しても、先に動いているのは手であって、テーブルではないことが判明した。
つまり、被験者の「私はなにもしていないに、テーブルが勝手に動く」という“思い込み”を正確な測定によって排除してみせたのだ。
ファラデーは、「このようなものが国民のあいだに流行しているようでは、わが国の教育制度は、どこか重要な原則において間違っているに違いない。」と書いている。
・・・・・・・・にしても、ファラデーって、頭がいいだけじゃなくて、顔もイイですね〜。
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“コックリさん”が登場するのは、1884年/明治17年 ―
伊豆半島・下田沖に漂着したアメリカ船の乗組員が日本に“コックリさん”を紹介したのが始まりである。それから3年後の1887年/明治20年5月2日、井上円了は『妖怪玄談・狐狗狸の事』を出版。
“コックリさん”を研究した結果、ファラデーと同じ結論に至ったことを発表した。
この現象は、「人の潜在意識(※予期意向)を反映して、無意識の筋肉運動(※不覚筋動)によって自分で動かすことで起こる現象」だと述べた。
※予期意向: あらかじめ期待・覚悟すること、思い込み
※不覚筋動: 無意識に筋肉が動く人間の生理的、潜在的な身体動作
“コックリさん”は、「超自然的な力で起こる現象」ではなく、一種の自己催眠誘導現象なのだ。
● 客観化 ●
井上円了の研究は、しだいに体系立てられていき、明治26年〜27年にかけて『妖怪学』という連続講義を行ったりもした。
井上円了の主張によると、世間一般では「妖怪・超常現象などは無意味なもの」、または「くだらないヨタ話」であると考えられがちだが、「迷信に違いない。」と思うことを「迷信である。」と断定するためには、「まずこれを客観化しておく必要がある。」という。
まったく同感である。
が、「迷信であると判明しても、なぜか伝わりにくい。」のはなぜだ!(怒)
● 科学的分析による迷信打破 ●
井上円了は、「科学を信じ、森羅万象は合理的世界の中で分析されるものである。」という前提で、「天変地異や神秘的な現象は、科学が発達すれば、ほとんど解決されるであろう。」と述べている。
それらは理学や医学の領域でも説明されるし、哲学においても、陰陽五行説・易・おみくじ・人相・家相・厄年など、分析すれば必ず説明がつくものであると述べている。
心理学においては、コックリさんや狐憑き、幻覚、催眠などが分かる。
また、幽霊や人魂、祈祷、などは、宗教学の分野で分析が出来るものだと述べている。
井上円了は、科学という方法を用いて迷信を打破しようと試みたのである。
● 理論による解明 ― 虫のしらせ・正夢 ●
たとえば、毎日目覚めた後でもハッキリと覚えている夢を見た人が100人に1人いたとする。現在の日本の人口を1億3千万人とすると、1日で130万の夢を見るという計算になる。それが1年だと4億6千8百万の夢を見ることになる計算である。
このうち100〜200の偶然に一致した夢があったとしても、別段不思議ではない。
仮に300の夢が完全に一致したとしても、その確率は100万分の1以下である。
一致しなかった夢、つまり、467,999,700のハズレた夢が存在していたはずである。
当たらなかった夢は、記憶からすぐに消えてしまうが、逆に当たった夢は、「当たった!」という衝撃として鮮明に記憶され、他人に話すことで広まり、立証された事実であるかのように語り継がれることになるのだ。ちなみに、予言や占いにもこれと同じことがいえる。
井上円了は、これを「偶合者生存不合者消滅の法則」と説いた。
ハズレた夢ならば、仮に本人が記憶していたといても、他人に話すこともないだろうし、たとえ話したとしても、「ふぅ〜ん。」という程度で、まともに聞いてはいないだろう。
この法則で毎年何百もの「虫の知らせ」、「正夢」、「予知夢」伝説が生まれ、語り継がれているわけである。こういった類の伝説は、語り継がれるうちに話に尾ヒレがついて膨らみ、誰が言い出したのかわからなくなってくるものである。
そうして最後には、まるで事実であるかのように定着してしまうのだ。
人は誰しも安らぎを求めている。その裏返しとして不安なものに強く興味を抱くのだという。「怖いもの見たさ」の心理がそれである。
超常現象や予言、マジックなどに人気がある要因もそこにある。
そのため、そういった物に強く関心を惹かれて、深く考える前に信じてしまうのだ。
● 妖怪の分類 ●
井上円了は、日本各地で語り継がれているあらゆる妖怪(超常現象や迷信)に関する話を収集分析した結果、それらを偽怪、誤怪、仮怪、真怪という4つに分類した。
| 偽怪 |
人が意図的につくりだしたもの、トリック。
手品や最近タネが暴かれたスプーン曲げ等がこれにあたる。 |
| 誤怪 |
偶然に見間違えたもの。 「ツチノコ」と騒がれたものが、実は「ヤマカガシ」という蛇だったなどがこれである。 |
| 仮怪 |
自然現象で起こる不思議なこと。蜃気楼や不知火などがそれにあたる。 |
| 真怪 |
現在の科学では解明できないもの。 |
世間でいわれる妖怪のほとんどは、まず、偽怪か誤怪である。
しかし、仮怪を研究することは自然科学を解明していくことであり、
真怪を解明することは万物の法則を発見していくことである。
すなわち、「妖怪研究は、人類の科学の発展に大変有意義なことである。」というのが井上円了がたどりついた結論である。
これは余談だが、井上円了は、しょーもない迷信まで結構必死に調べている。
そういう子供みたいな一本気なところが、なんとなく「かわいい」と思う。
- 「4」など、不吉といわれる数字ばかりを使って生活してみた(電話番号に444-4444など)
- 「お化け屋敷」といわれる家を選んで住んでみた
まだまだあるが、こういうしょーもない事をトコトンやってしまう、「学者肌だが、どこか学者然としていない」ところもまた、人々が彼を“お化け博士”と呼んで親しんだ由縁であろう。
● 妖怪研究史 ― 2人の妖怪博士 ●
妖怪研究史において、忘れることのできない人物がもう一人いる。
妖怪研究者として名高い柳田國男である。
しかし柳田國男の民俗学は、井上円了の妖怪研究とは相容れないものであったという。柳田國男の『妖怪談義』では、井上円了氏の『妖怪学』を肯定的には見ていないようである。
私は『妖怪談義』を読んだことはないが、
「化け物を否定した故井上円了博士」といった表現が出てきたり、
「ちょうど後年の井上円了さんなどとは反対に・・・」という言葉が出てきたりするという。
柳田國男的に見ると、井上円了の『妖怪学』は、「妖怪とは迷信の産物である。」と考えているところに問題があるらしい。柳田國男は妖怪を迷信とは見なしておらず、神や妖怪と人間との相互関係を見ようとしていたという。簡単に言うと、「迷信とは社会に害を及ぼすものであるが、妖怪を社会的に害悪の形にしたのは、人間の方に責任がある。」ということが言いたいらしい。
では、井上円了が妖怪全てを迷信として排除したがっていたのか?というと、そんなことはないのである。井上円了は、熱心な実地調査で“お化け博士”として全国にその名を知られるようになった。
井上円了が調べ歩いた場所は、実に1道1府48県215箇所にも及ぶのである。
当時の交通機関を考えてみてほしい。
頭から否定して排除したがっている人が、果たしてここまでするだろうか?
人々が親しみを込めて“お化け博士”と呼ぶだろうか? 否、そんなことはないだろう。
井上円了は否定論者ではなく、間違いなく懐疑論者だったと私は確信している。
日本各地の妖怪話を自らの足で調べようとしたという趣旨においては、柳田國男も井上円了も変わりはない。要は「妖怪をどう定義するか」が違うだけである。
哲学者である井上円了は、「不思議な現象=妖怪現象」とした。不思議だと考える感覚は誰にも共通してあるものだから、「不思議だと思われる対象=妖怪」だとしたのである。
民俗学者である柳田國男は、「妖怪=神の零落した姿(鬼みたいなかんじ?)」とした。柳田國男にとって、神の研究と妖怪の研究が結びつくものだったからだ。
そこの差だけである。科学的におかしいとか調査のやり方が甘いとか批判しているのではない。ぶっちゃけ、自分が思ってる妖怪のイメージと違うから批判しているのである。私にはどう見ても、「柳田國男という学者の我」でしかないように思える。根本が違うのだ。
「神と妖怪との間にある法則性が、人間の心理の中にどう構成されているのか?」をというのをつきつめようとしている柳田國男にとっては、この問題は「人間と自然との関係から生じたもの。」、
言ってみれば、もののけ姫的問題である。
柳田さん、・・・文明開化なんてどうでもいいんですね。
デビルマンでもベルセルクでもいいから、人にイチャモンつけずに、
ひとりで好きにやっててください。(爆)
井上円了の場合は、不思議な現象や科学では説明がつかない存在を「分類していくとどうなるか?」という発想があるので、柳田國男の視点とは異なるのだ。 ただそれだけのことである。
井上円了は「妖怪=怪奇現象の総称」と捉え、柳田國男はいわゆる「水木しげるの妖怪のイメージ=妖怪」と捉えていた。井上円了の考え方であれば、今日のオカルトと呼ばれるものも含まれてくるのだろう。しかし柳田氏のいう妖怪は、まさに奇怪な姿をした妖怪のことである。
UFOと鬼を同じように考えようとしたら、無理があって当然だと思う。
意見が合わなかったとしても、なんら不思議はないし、どちらがより正しいという問題でもない。
■ 1919年、半生を哲学や宗教についての知識をつたえるとともに、迷信の打破をめざして活動した井上円了は、遊説先の満州大連において62歳で客死した。
東京都中野区には哲学の精神修養を題材としたテーマパーク、またの名をオカルト庭園と呼ばれる哲学堂公園がある。妖怪趣向、神秘趣向の建物があり、円了の妖怪観が現在でも見てとれる。
● 現代の妖怪 ― 「金儲け」 ●
昨今のテレビ番組を観ていると、相変わらず“超能力捜査官”や“霊視”、“透視”など、人気集めだけを考えた無責任な内容、思わせぶりな表現が横行している。
前述でファラデーが危惧した通り、とくに子供の場合は、親や教師の言葉でなくとも、テレビやラジオ等のマスコミ、雑誌、芸能人の発言でさえ、時に大きな影響力をもつことがある。
現代のそれは、もうファラデーが書いた「どこか重要な原則において間違っている」などという、かわいいものではなくなってきている。
近年、“コックリさん”にまつわる事件だけをとってみても、これだけの事例が報告されている。
- 京都府下、中学生が“コックリさん”をしていて「悪霊に取り憑かれた」と言って奇行に陥った
- 静岡県下、2人の中学生が“コックリさん”をしていて狐に取り憑かれたと思い込み、校舎の3階から転落
- 自室で受験勉強の合間に“コックリさん”をしようとした熱海の中学生が、両親に見つかり中断した結果“コックリさん”に取り憑かれ、ノイローゼに陥った
- 福岡県下の中学生が「集団“コックリさん”中毒」にかかり、授業が続行できなくなり、下校処分にする事件が発生
- 群馬県下、“コックリさん”をしていた3人の中学生が「眠り病」に陥いる
- 浜松の27歳の主婦は、夫の留守中に“コックリさん”したところ、それがきっかけで「短大時代の恋人の霊」に取り憑かれて奇行に陥り、精神分裂病発症を誘発した
ところが、これについて、ある女性占い師は、週刊誌上で
「動物の低級霊が憑く場合もある。」と説明した。
ぇえええ? 低級霊が憑く場合もある?
それは困りましたね、どうしましょう。
あれから118年も経つのに、まだ知らない人がいるようです。
これは教えてあげなくてはいけませんね。
いいですか? もう一度いいますよ。
この現象は、「人の潜在意識(※予期意向)を反映して、
無意識の筋肉運動(※不覚筋動)によって
自分で動かすことで起こる現象」です。
「超自然的な力で起こる現象」ではなく、
一種の自己催眠誘導現象です。 |
つまり、“思い込み”だけでもこうなるということです。
わかったら、公の場で妄想を撒き散らすのは、もうおやめなさい。
こういったいい加減な意見ばかりがメディアによって積み上げられていくというのは、本当に百害あって一利なしである。ゴミを撒き散らすのは楽でも、そのゴミを一つ一つ拾うには大変な労力と年月が必要になるのだ。
たとえば、不思議現象を楽しむ番組があっても良いとは思うが、
もう一方で謎を解き明かす番組がもっとあっても良いのではないだろうか?
問題は、情報のバランスがまったくとれていないところにあると私は思う。
先人たちが積み上げてきたものを大きなメディアが一方的にないがしろにして、
性懲りもなく迷信を広めてしまうのでは、貴重な研究を無に帰してしまうのと同じ事である。
それは私たちにとって、大きな損失ではないだろうか?
私は何か変な現象のようなものに出会うと、いつもビビってばかりだったが、こういう人物がいるのを知ってからは確実に変わった。
何かあると、やはり一瞬ビビるが、次の瞬間こう考えるようになった。
「むやみに怖がったらアカン。井上円了やカール・セーガンのやってきた苦労が水の泡になってしまう。何が原因か、まず自分の頭でよく考えるんや。」
こう考えると、不思議とまったく恐怖を感じなくなり、冷静に原因を考えることができるようになりました。本当です。皆さんもぜひ試してみてください。これは効きますよ〜〜!
■ 一般的な懐疑主義 〜フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より〜
『一般的な「懐疑主義」
現代においては、社会において、一般的・常識的とされている思想・考え方や、事実として語られる事柄に対して、自分自身の経験や自分自身がそうあるべきだと思う考えと照らし合わせてみて、おかしいと思った場合それを受け入れないでいること。特に非科学的な事柄(UFO・心霊現象・占い等のオカルティズム等)に対して強く疑いを持つ考え方を、一般的に「懐疑主義」という。なお、この観点から言えば、一般の人は全て懐疑主義であるといえる。
しかし現代において、本当の意味で懐疑主義が根付いているかといえばそうではない。
むしろ、「科学的といわれていれば、真実である」という常識に盲目的に従っている人も多くいると考えられ、疑似科学はそういった社会の固定観念に付け入って増殖している。』
■ 懐疑論者にはロマンがない。夢がない。ロマンが判らないだけではないだろうか。
〜懐疑論者の祈りより〜
『私が見た限り、懐疑論者はどちらかというと知的なロマンを抱いた人の方が多いので、明らかにそれは事実と異なるでしょう。説明しましょう。
私が抱くロマンと、与太者が負け惜しみで言い放つそれとの相違点は、欺瞞に陥った人達の空想にはロマンを見出さないという点です。なぜなら、
知的ロマンとは、そこに真実への期待があってこそ、初めて真のロマン足りえると思うからです。
(中略)
ピリレイスの地図、水晶ドクロ、ピラミッド… もう何度も暴かれているのに、そこから宇宙考古学的な与太話を展開するなんてことは、テキサスの黄金都市の探索と同じ理由で、ちっともロマンじゃない。
もちろん、オーパーツには興味深いものがあり、それ自体は私はとても好きです。
想像力の貧しい連中の勝手な決め付けを無視するなら
、その不思議さと古代人の技術と叡智と活力に、心から驚嘆し畏敬の念を抱けますし、なにより知的スリルとロマンを感じます。
異なった意見や異端科学というレベルをも逸脱し、それが空想や妄想、疑似科学と呼ばれるほどデタラメになってしまわない限りにおいてこそ、ロマンはロマンとしての地位を持つのだと思います。
私は、知的ロマンを追うとき、それがデタラメという与太話の世界に逝ってしまわないための最良の指針は、知的好奇心と健全な懐疑精神の両立であると思います。
”古代文明の謎はどこまで解けたか1、2,ピーター・ジェイムズ著ニック・ソープ著”や”脳の中の幽霊,ラマチャンドラン著”などは、懐疑的であることと、知的好奇心やロマンが融合し たお手本のような研究だと思います。前者はSkeptic libraryですし、後者は「科学者であれば皆、健全な懐疑精神と知的好奇心が必要だということを知っている
」といった
名言さえあります。
この意味で、「懐疑論者にはロマンがない」という発言は誤りであるといえるでしょう。もちろんロマンのない懐疑論者もいるでしょうけど、懐疑論者だからロマンがないということではないでしょう。』
■ 暗闇で灯すロウソクとしての科学
〜The Skeptic's Dictionary :Science
より〜
科学とは、カール・セーガンが述べたように、暗闇で灯すロウソクである。
私たちの先祖はオカルトや超自然的力を畏れ、これらを捉えようと試みて苦闘したが、それは生き抜くために当然のことだった。
だが、科学は私たちの周りの世界に光を当てて、
私たちが迷信や恐れを乗り越えて、
無知や妄想を乗り越えて、
そして私たちの祖先の魔術的思考を乗り越えて
周囲を見渡すことができるようにしてくれるのだ。
< 参考文献 >
※ 井上円了の「科学が発達すれば、ほとんど解決されるであろう。」という言葉を無視して、明治時代に氏が『真怪』とした資料を持ち出して、自分に都合良く歪曲し、「迷信の証明」に利用しようとする輩がいる。しかし、それは井上円了の志とは全く逆のものであると私は考える。
私は、こうした「死人に口なし」的な引用のしかたには疑問をおぼえる。
憤りをおぼえるといってもいいかもしれない。
何度も言うが、先人たちが積み上げてきたものを一方的にないがしろにして、性懲りもなく迷信を広めてしまうのでは、貴重な研究を無に帰してしまうのと同じ事である。
もしそのような記事を見かけたら、鵜呑みにせず、井上円了が行ったのと同じように、まず疑ってみてほしい。「あの当時には『真怪』だったが、現代の科学では解明できるのではないか?」と。
それこそが、井上円了の志した「人の心の文明開化」なのだから。
そしてしっかりと見極めて欲しい。
その者が、「歪曲することによって何を信じさせようとしているのか?」を。