モンゴル吉村隊 暁に祈る事件


〔昭和24年3月28日〕  吉村隊長の自宅近くの寺で、300人の聴衆が見守る中、吉村と元隊員3人の直接対決が行われた。

吉村:

問題になっている石割り作業は、はじめ石田部隊がやっていた。作業は困難で、決められた数の石を切ってしまわねばならなかった。当初の基準量は1立方メートルだったが、倍の2立方メートルになった。

坂口: 2立方メートルだったのは吉村隊だけだ。なぜ吉村隊だけそんなことになったのだ。
森山:

他の隊では、基準量をこなした者に対しては、その分の給料が出ていた。
吉村隊だけなかったのはなぜだ。

吉村: はじめの一回だけは受給されたが、それ以降モンゴル側から支給を受けなかったからだ。
森山: では、ノルマ未達成者に対する処罰はなぜ行われたのだ。
吉村: あれは、全部モンゴル側からの命令だった。
3人: 吉村隊では処刑されて殺された隊員がいたが、他の部隊はそんなことは起こらなかった。
吉村: そういった質問については法廷で答える。
ここでそんなことを話しても水かけ論になるだけだ。
3人: 吉村隊では捕虜に対して残酷なことを平気でやっていた。
吉村: そんなことはない。
3人: 同胞愛があったら、あんなことは出来ないはずだ。
姑息な自己保全としか思えない。
吉村: 私は民主グループの人民裁判の内容だけを話して終りたい。
森山:

民主グループの話は最後にしたい。あなたが“暁に祈る”を行った事実を認めるかどうかについて答えてもらいたい。

吉村: “暁に祈る”とは何ですか?
森山: それは営内のあの電柱にしばりつけ一晩中立たせた処罰だ。
吉村: あれは全部命令によってやった。逃げるからしばりつけたのだ。
命令である。
3人: .....
吉村: もう、これ以上水かけ論をしたくないので終わらせてもらう。
(一方的に席を立つ)

「“暁に祈る”とは何ですか?」 とは何ですか? つい先日の報道記事で記者に対しては、答えていたはずだ。元隊員を前に平然とこう答える吉村の人間性とは一体どんなものだったのだろうと疑問に思う。

吉村に対して同情的な意見を持つ人は少なくないが、私は、こういうあからさまなとぼけ方をする人間には好意を持てない。むしろ鼻持ちならない。この言葉には、“疑惑”を“確信”に変えてしまうほどの不誠実さが表れているように思う。相手をバカにしているとしか思えず、図太さを感じるのみである。吉村のこういう人間性も、隊員たちにより憎悪を抱かせた原因のひとつであると思われる。


“暁に祈る”の方法ができる以前は、ノルマが達成できなかった者は、地下穴に閉じ込められたという。さらに物置小屋を改造した「C心寮」という営倉があり、そこも捕虜たちの恐怖を集めていた場所だという。


〔昭和24年4月12日〕
参院の在外同胞引揚委員会の証人喚問に吉村隊長を含む6人が立った。

吉村隊長は終始落ち着いた柔和な態度を見せており、説明も詳細に渡って行われたが、その中には“命令”という単語がやたらに多く含まれていた。

“捕虜の健康と無事が第一、作業は二の次”の長谷川元大尉と、“一にも二にもノルマ達成が管理者の仕事、人命管理は二の次”の吉村隊長のリーダーシップの違いが、証言が進むにつれて顕著に表れる。

 

長谷川元大尉の証言

昭和21年6月、自分が隊長を降ろされ、代わりに吉村が隊長になってから、吉村隊の過酷なノルマ主義が始まった。モンゴル側から説明された隊長交替の主な理由は、「作業をまともに指導しない。内心でモンゴル人をバカにしているからだ」などであった。営倉には合計7回入れられたが、理由は「病気の捕虜をかばって作業に出さないから」などだった。


吉村隊長の証言

長谷川隊長が交替させられたのは、隊員の監督が十分出来ていなかったからだ。スズメを狙って石をなげた隊員が謝ってガラスを割ったり、捕虜が逃亡した事件があり、それが大きな原因になっている。私はモンゴル側の命令で、「モンガル側が命令した作業には絶対従う」などを明記した誓約書を書かされた上で、隊長に任命された。「捕虜の私物を取り上げて、モンゴル側に差し出していた」といわれる点については、たしかに捕虜が持っていたカメラを取り上げてモンゴルの将校に渡した事があるが、それはカメラを兵器だと指摘されたためだ。


原田元通訳の証言

はじめモンゴル側の収容所長は、長谷川隊の方が効率が良かったこともあり、長谷川隊と仲が良かった。ところが、昭和21年4月に所長が交替して新所長が着任した。その頃から、吉村隊長が積極的に作業能率上昇を目論むようになった。長谷川元大尉が隊長が降ろされたのは、捕虜の身を気遣って、モンゴル側にノルマ以外の労働はさせないと拒否したためである。その後、新所長が長谷川と吉村に時計を差し出すようにと命令して従順度を試したところ、長谷川元大尉は拒否したが、吉村は逆に自分から喜んで時計を贈った。それ以来、新所長は吉村びいきになっていった。


〔昭和24年4月13日〕
参院の証人喚問


原田元通訳の証言

「C心寮」は吉村隊長が作った営倉で、屋根はあるが天井がなく、雪が吹き込む小屋だった。“暁に祈る”に使われた柱は、初めからあった電柱と馬つなぎ場だった。「C心寮」に閉じ込められたり、“暁に祈る”に処せらて凍死寸前の重態に陥っても、収容所には医療施設がなかったため、入院手続きの間に死んでしまう者もいた。吉村隊の場合、ノルマは正規のものでないのが多く含まれていたが、それらが課せられたのは次のような理由からであった。

@モンゴル軍の権限のない将校や兵士が勝手に命令したもの

A吉村隊長が勝手に決めたもの

B吉村隊長自らが申し出て所長に認めてもらったもの

モンゴル側が決めたノルマが達成できないという理由で、日本人の隊長が同じ日本人捕虜を処罰したり、自分たちを捕らえている側の利益になるように努めて、同胞に過酷な労働を強いるなどというケースは、吉村隊以外では考えられなかった。

 

笠原元隊員の証言

新聞報道にあった吉村隊の実態はほぼ正確なものである。ノルマを達成できずに鞭打ちをされ、翌日作業から帰るとすぐに死んだ捕虜や、石切り場の作業中に休憩したところをとがめられて暴行を受け、その後も作業を休みなく続けさせられ、そのまま死んだ捕虜もいた。


鎌谷元隊員の証言

モンゴル人から羊の皮についた肉を貰ったと攻め立てられ、営倉に押し込めらた。凍死の恐怖から収容所へ戻ると、ひどい暴行を受けた。その後14時間“暁に祈る”をさせられた上、3日間絶食にされた。


君島元隊員の証言

朝、作業に出る時に、“暁に祈る”で縛られている捕虜を30人ほど見た事がある。“暁に祈る”で死んだ捕虜は大抵そのまま炊事場の横に捨てられていた。


酒井元医官の証言

吉村隊で2年間に出た死者は、内科で20人、外科で10人で、外科のうち3人は暴行死であった。モンゴル側の所長は、捕虜たちが食糧不足で衰弱しているようなので、ノルマの達成は半分でいいと言っていた。それなのに吉村隊長は過酷な労働を強いており、作業中に倒れてそのまま死ぬ者が出ていた。また菊池という捕虜は渡辺という男に殴り殺された。吉村隊の隊員は全部で700人だったが、死亡者、入院患者、他の隊へ移る事を強く希望した者などが続出したため、日本に引揚げてくる時までの2年間で、隊員数はおよそ80人にまで激減していた。


〔昭和24年4月13日〕
最後の証人喚問が行われた。


堀金元隊員

“暁に祈る”をさせられている捕虜に、モンゴル側の番兵が、「早く隊長に謝って許してもらえ」と言っているのを聞いて、“暁に祈る”は、モンゴル側の命令による罰ではなく、吉村個人が勝手に決めたリンチだったのだとわかった。


笠原元隊員

どんな命令でも断ると必ず暴行を受けるので、捕虜たちは従うしかなかった。そのような状況下で、吉村から「靴のかかとのゴムを盗んでこい」と、窃盗を命じられた事もあった。


小峰元隊員

死体を病院へ運んだことが2回ほどあるが、捕虜をリンチする一方で、吉村自身は自分の部屋で悠長に楽器を鳴らしたりしていた。


清水元隊員

ノルマを達成しても捕虜の配給が増えることはなく、常に飢えて衰弱していたが、一方で、吉村隊長や部隊幹部たちは白米やぼた餅を食べるなど、食糧事情が向上していた。


阿部元隊員

捕虜たちは最後には草まで食べる有様だった。あまりの飢えから盗みまで犯した。

 

酒井(幸)元隊員

材木運びのノルマはモンゴル人が1日1本だったのに対し、吉村は日本人は1日7本と勝手に決めた。しかもその本数は、その日の吉村の機嫌次第で増減が左右された。また吉村が所長に大金を渡しているところを目撃したことがある。捕虜である我々が金を得る方法など限られている。あれらの大金は捕虜の賃金を横領したものとしか考えられない。

 

原田元通訳

吉村が所長に金を贈ったというのは事実である。また石切り作業が激しくなってからは連日リンチが行われていた。その数は、少ない日で3人、多い日で25人など開きがあった。“暁に祈る”については、モンゴル側の所長からも「行き過ぎだ」と批難されていた。それでも吉村は、最終的に石切り作業のノルマを3倍の3立方メートルにまで増やした。必然的にノルマを達成出来ない者が増え、それに比例してリンチされる人数も増えた。


〔昭和24年5月6日〕
吉村隊関係者への参院での証人喚問が再開する。

 

小林元少佐の証言

吉村隊の話は噂で聞いて知っている。実際に吉村隊から自分の隊へ逃げて来た捕虜たちもいた。捕虜たちは皆、吉村隊にだけは行きたくないと言っていた。


高橋元軍医の証言

吉村隊から運ばれてきた40人の遺体のうち、半数は凍死者だった。靴を盗まれて、靴下のまま石切り作業をさせられたせいで凍傷にかかってしまい、足を切断せざるをえなくなった捕虜や、肺炎のまま働かされて命を落とした捕虜もいた。労働を拒否すれば吉村から激しい暴行を受けるため、死ぬ一歩手前のような状態でも、捕虜たちは追い立てられて作業場へ行くしかなった。そのような管理体制の中で死んだ菊池という捕虜は明らかな暴行殺人の被害者だった。


永井元隊員の証言

自分は民間出身で熱河省協和会事務長をしていた。吉村は自分には礼を尽くした。しかし収容所では石切り場の労働は地獄だと有名だった。

 

渡辺元隊員の証言

自分は石切り作業場の監督はしていない。殺されたという菊池という人は知らない。

渡辺元軍曹(31才)には、石切場での菊池捕虜殺害の容疑がかかっていた。この証人喚問の翌日5月7日、渡辺は栃木の黒磯にある自宅へと帰る。


〔昭和24年5月10日〕
菊池殺害を否認した渡辺は偽証罪で告発された。

同日5月10日の午後2時頃、渡辺は家を出たきり行方不明になる。そして午後7時、山中において渡辺の首吊り自殺とみられる遺体が発見される。死亡推定時刻は午後4時であった。


〔昭和24年7月1日〕  約2ヵ月後のこの日、吉村隊長(本名:池田重善)は、東京地検に任意出頭した。午後2時に逮捕状を示され、吉村は、一瞬驚いたような表情になり、「今日ですか」と一言つぶやいた。


その後の吉村は、自らの身の潔白を主張した。

“暁に祈る”という処罰の方法については、言われているほど残虐なものではなく、これで死んだ者はいない」 証人喚問の内容には一部誤解があったと語った。そして、「私の指導力の不足やその他にも欠陥があったと思う」とも語っていた。


昭和27年、東京高裁で吉村は逮捕監禁罪遺棄致死罪で懲役3年の判決を受けたが、再審を訴え無罪を主張した。

出所後、吉村は故郷の長崎県で行商をして生計を立てるかたわら、無罪を主張し続け、後の半生をすべて無罪の主張に費やした。その吉村の主張を受け、弁護士や記者などが調査団を結成し、事件を再調査した。そして昭和63年に「やはり無罪ではないか」という内容の報告がまとめられたが、再審請求をする間もなく、同年、昭和63年9月11日、吉村は脳内出血でこの世を去った。享年73才であった。

こうして“暁に祈る”事件は、永久に不透明な幕を降ろした。


 凄惨なリンチ殺人は、実際にあったのだろうか? >

少なくとも、吉村隊長個人の異常なまでに膨れ上がったによって、過酷な労働が強いられていたのは事実である。モンゴル側の命令だというノルマも、実際は吉村の独善的な押しつけによるものがほとんどである。

吉村の階級は曹長で、本来、曹長程度の階級の者が隊長に任命されるということ自体が異例であった。そうなった経緯は別にしても、捕虜の中には、「なぜ階級の低い者につき従わねばならないのだ」という反感もかなりあったのだという。そのような反感を持つ者たちを統率しなければならなかったにしても、吉村の行動には同じ日本人捕虜に対する配慮が全くみられない。

そのことが多数の同胞の死を招いたのは確かであり、それを知りながら改善しなかったことは、やはり異常である。外国で捕虜として捕まり、そのうえ同胞の日本人から虐げられる結果となった隊員たちにとって、強烈な憎悪の念が芽生えたことは間違いない。過酷な労働自体、捕虜にとってはリンチと同じことであり、それで命を落とした者が多数いたことを考えれば、リンチ殺人はあったという見解に至る者もいるだろう。

“暁に祈る”を体験した者の中には、命は取り留めたものの、ひどい凍傷にかかってしまい、手足を失った者、ペニスが千切れ、根元だけしか残らなかった者もいるのだ。意図的な殺人があったとしても、なかったとしても、同じ捕虜である仲間を思いやろうとしなかっただけでなく、身体に障害を残したり、ひどい暴行を加えた翌日作業をさせ、死亡させるに至った吉村の行き過ぎについては、断じて許されるものではない。

その非人道的な行いにおいて、吉村は間違いなく有罪なのである。異国の地で帰国できる日を待ちわびながら、過酷な労働の末に亡くなった多くの捕虜たちの無念を思うと、やりきれない気持ちになる。

「私の指導力の不足やその他にも欠陥があったと思う」と、吉村は語っている。しかし一方では、「それほど残虐な罰は与えていない」とも言っている。

一体、吉村は、死んだ仲間やその遺族に、心から詫びる気持ちを一度でも持ったことがあるのだろうか? 

たとえ殺意がなかったとしても、自分の間違った管理や不必要な過大ノルマが、仲間の命を奪ったり、障害者として生活することを強いたりしたという事実について、本当に心から悔いたことが一度でもあるのlだろうか?
この事件で私が一番気になるのは、そこである。

吉村は、“死ぬ間際まで無罪を主張し続けていた”という。そのことで同情を寄せる人々もいる。 これが裏を返せば、“死の間際まで自分のことしか考えなかった”でなければいいのだが。


吉村隊によく似た捕虜部隊の話は、他にも2例報告されている。

ソ連のアルバイク収容所において、ソ連側に「自分を中隊長にすれば作業能率を上げる」と売り込んだ男が、温厚な前任の中隊長のことを、「あれは特務機関員だ」とソ連に吹き込んで、中隊長を辞めさせて自ら中隊長になり、スパイのような連中を使って捕虜を監視させ、リンチを行った。そして8時間だった労働時間を12時間に延長した上、捕虜の食糧を横流ししたため、捕虜たちは飢餓状態で重労働を強いられた。

まったく吉村隊の話にソックリである。しかしこの隊では、別の終わり方を見せる。そのように横暴を続けたことで、遂にキレた捕虜に斧で襲われた男は重傷を負い、一命は取り留めたものの、その後一生記憶障害となってしまった。

中国の本溪湖避難民収容所で、元満州国の警官を自称する男が中国の役人に取り入り、収容所補佐官になったが、男は権力をかさにきて、避難民の女性たちに関係を迫ったり、食糧を横流しするなどしていた。収容所内でコレラが流行し、100人近くが苦しんだが、なんの処置も行わず、見殺しであった。


1995年、朝日新聞の調査によって、モンゴルにいた抑留者の人数は1945年にモンゴル側がソ連側から受け取ったのは12,318人で、うち送還されたのは10,705人。抑留中の死亡者は1,618人。スパイ容疑等でモンゴル軍に連行された者8人、その他、脱走した行方不明者3人とされている。

この数字はモンゴルの歴史中央文書館の資料に基づいたものであるが、この人数については諸説あり、数字にバラつきが見られる。そのため確かな人数については、依然明らかになっていないのが現状だが、抑留中の死亡者の総数は、現在一般的に2000人〜3000人であるといわれている。

これにより最初の報道で吉川元隊員が証言した吉村隊の死者数は、完全に誤りであり、誇張されたものであったと推測できる。現在では、吉村隊における死亡者数は30〜200人だといわれているが、どうみても数が開きすぎである。どうしてそんなことが起こるのかについては、忌まわしい事件として関係者が口をつぐんでしまうことと、当時まともな記録がとられていなかったことが理由として挙げられている。

この人数については永久にのまま歴史に残されることになりそうだ。

1万人を超える抑留者を細かく管理・指導する方法がなかったモンゴル軍は、日本軍組織に頼るしかなく、日本軍の上官を通して命令する管理体制をとっていたようである。吉村隊の“暁に祈る”事件もそのような管理体制の中で起こった独裁であった。

※尚、“暁に祈る”と“熱砂の誓い”というタイトルの曲がありますが、
同じ名前なだけで、この事件との接点はありません。


関連資料 凍土の悲劇―モンゴル吉村隊事件  

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・あらすじ(「BOOK」データベースより)
明優丸を下船する前に、三人は共通の誓いを確認した。
この船を降りたら最後、決して本名を名乗ってはならない事、再び会わない事、
偶然の邂逅にも未知の人のふりをする事…。
三人はわざと時間をずらし、白木の箱を抱えて上陸した。
首から提げているのは、名前を盗んだ男の遺骨だ。
凍てつくシベリアの捕虜収容所で起こった「暁に祈る」事件。そして幽霊帰国。
極限状態での生と死の意味を問う傑作ミステリー。

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