昭和23年から24年頃、ソ連から引揚げてきた元捕虜たち間で、怪談めいた話が囁かれていた。
それは、『モンゴル吉村隊の記録』というもので、「日本人捕虜による日本人捕虜リンチ殺人」の様子を伝える凄惨な物語だった。それはクチコミで大衆に広がったものだが、その話が都市伝説のような扱いになっていたのは、話を広める者の中に事件の当事者が一人もいなかったからである。
〔昭和24年3月15日〕
朝日新聞の朝刊に、吉村隊の元隊員だった吉川(26才)という男の証言が掲載された。吉川は昭和20年にウランバートル収容所に移送された捕虜の一人であった。彼の証言によると、問題の吉村隊は、そのウランバートル収容所の西北にある羊毛工場に実在していた隊だという。
記事は吉村隊長の人物像についても述べていた。
@ 吉村という名は偽名で、本名は池田
A 吉村の当時の年齢は26〜27歳
B 四角い顔の男で宮崎県の出身だと自称していた
C 憲兵上がりだと言っていた
その他に「小学校を出てから苦学して神戸で検事にまでなった」などの逸話もあったという。吉村は捕虜の中のゴロツキ連中などを従えたボスにのし上がり、さらにソ連側の収容所長に媚びへつらい、「自分を捕虜の監督に任命してくれれば作業率を2割上げてみせる」と自分を売り込み、中佐にまでなったのだという。そのような作業効率の遂行を請け負った吉村の管理体制は、捕虜にとって地獄だったが、当の吉村は作業には参加せず、毎日酒を飲むていたらくだったという。
吉村が隊の捕虜に強いた生活と作業は、このようなものだった。
● 捕虜たちの起床時間は朝4時
● 2キロ離れた山から材木を1人2本ずつ運んでからでないと朝食を摂ってはいけない
● 朝食後、8時間のレンガ焼き、羊毛紡ぎ、石切り作業
● 夕方4時から収容所そばの川で、イカダから材木を調達する作業
● 夜9時半、ノルマ通りの作業を完了した者だけ夕食を摂ることが許される
● 夕食後も羊毛紡ぎ、夜1時過ぎに就寝
● 毎日の睡眠時間は平均3時間
吉村が課したノルマを達成できない者は、吉村の取り巻きであるゴロツキ連中に暴行を受けた。この隊内リンチ殺人の死者は2000人にも及んだという。さらに隊内にはスパイ制度のようなものまであり、何かあるとすぐに密告され暴行の対象になった。
こうした中で吉村が考え出したのが“暁に祈る”というリンチであった。
“暁に祈る”に処せられた捕虜は、服を脱がされて丸裸のまま木に腕を縛られ、夜中にはマイナス何十度にもなる極寒の野外に放置された。30人以上の捕虜がこのリンチを受け、朝日が昇るころになると祈りを捧げているような格好で前かがみになって死んでいたという。
吉村が帰国の途についたのは、昭和22年10月だった。復員する他の者と比べると、吉村だけが不思議なほど大量の物資を抱えていた。しかし帰国途中、ナホトカで人民裁判にあい、吉村は審理にかけられた。そして、吉村を恨む隊員らから半殺しのリンチを加えられた。
元隊員の吉川は証言の中で、「いい大人が、なぜソ連の上級将校に訴え出なかったのか」、「なぜ誰もクーデターを起こそうとしなかったのか」という問いに対して、「当時は誰もが恐怖心でいっぱいだった。無事に帰国したいと思ったら反抗できなかった」と語った。
この話から察するに、当時の彼らの心境は、ナチス収容所に捕らえられたユダヤ人のそれに近いものであったようだ。
〔昭和24年3月19日〕
吉川元隊員の証言に応えるように、朝日新聞の朝刊に吉村隊長の証言が掲載された。帰国後、吉村(34才)は長崎の五島列島にいた。吉村が語った証言はこのようなものだった。
● 本名は確かに池田だが、憲兵だったことがソ連側にばれると生命の危険があっため、妻の旧姓を偽名として使っていた。(当時はこういうことがよくあった)
● ウランバートル収容所の羊毛工場で隊長をしていたことがある
● 最初の隊員数は300人だったが、その後、長谷川隊の隊員が合流して700人になった
● ノルマを厳しく課して作業効率を上げたので、モンゴル側からは高く評価されていた
● 給料の取り分をめぐって隊内で揉めごとがあったり、賭け事の流行で金銭トラブルが多発する中、とうとう隊内で窃盗事件が起こった
● 窃盗事件で40人近くが当局から処罰を言い渡された。その内の14人が手首に縄をつけられてマイナス20度の野外に放置されたが、防寒具は身につけており、監視員の目もあったので、死にまで至る事はなかった。夜が明けると14人は安心して眠気に襲われ、ついウトウトして頭を下げたのが“暁に祈る”の真相である
● 取り巻きのゴロツキ連中というのは、腕っぷしの強さを買って作業監督をさせていた者で、食事を2人分食べていたから恨みを買ったのだろう。それでそんなふうな噂が広まったのだ
● ソ連側中尉の捕虜賃金着服事件があり、賃金の出ない捕虜に、金の代わりに煙草を配って歩いたことがある。それを「隊長が着服した」というふうに勘違いして逆恨みした者がいた (この話の裏づけ調査をした結果、この中尉は着服がばれて軍法会議で免官になっていた)
● 吉村隊の死者は全部で30人だった
● 自分を売り込んで中佐にまでなったというのは事実ではなく、吉村隊の作業効率の高さから、モンゴル軍の隊員らが「吉村隊長というのは、きっと中佐ぐらいの高い階級の人なのだろう」と言ったのが誤って広まったのだ
吉村の故郷の宮崎で吉村の人柄を知る人の多くは、彼が凄惨なリンチ殺人を犯すなどとは到底考えられないと語っている。
吉村隊長の証言が掲載されてからは、吉村隊の元隊員という人々の証言が次々に出てきた。
笠井元隊員の証言
吉村が捕虜の賃金を着服していたのは事実。吉村は初めのうちは食糧事情を良くするためにノルマを上げていたが、ソ連側の自分の受けが良くなっていくので調子にのってしまい、当初の目的など忘れて、どんどん独裁的になっていったのだと思う。
浪野元隊員の証言
復員した時、恨みから皆と一緒になって自分も吉村にリンチを加えた。吉川の証言は事実だ。
君島元隊員の証言
吉村隊にいた時、隣のベッドで寝ていた仲間が朝には冷たくなっていたり、病人に無理な作業を強いて死なせたりしたのを何度も目撃した。
帰還者生活援護同盟 津村委員長の証言
ナホトカでの人民裁判は事実で、裁判の中で吉村は27人のリンチ殺人を認めている。
ウランバートルで薬剤師をしていた女性の証言
現地では昭和21年秋頃から吉村隊の“暁に祈る”の噂を耳にするようになった。運ばれてくる患者から、「作業が殺人的な吉村隊には、もう戻りたくない」といった話をされることが度々あったので、「噂は本当だったのだ」と思うようになった。徐々に患者が減り始めたので、「患者の口から吉村隊の実状が漏れるのを警戒して、入院させるまでに至らないように方針を変えたのではないか」と話していた。
笠原元隊員の証言
吉村隊の睡眠時間は本当に3時間だった。“暁に祈る”は、服を脱がせこそしなかったものの、夕方から木に縛りつけ、監視役がずっと監視していた。そのまま朝方まで放置され、凍傷で手足を切断せざるを得なくなった者もいて、死者も出た。
長谷川隊元隊長 長谷川元大尉の証言
吉村はモンゴル軍に取り入るために、捕虜の私物を取り上げてモンゴル軍に差し出したりしていたし、捕虜の賃金までも横領していた。
酒井元医官の証言
吉村は捕虜から取り上げた私物や、捕虜の賃金を浮かせた金でモンゴル軍に取り入って隊長になり、リンチ等の暴力で捕虜に恐怖心を植えつけ、ノルマを上げようとした事を認めている。2年間で30人が死亡したが、そのうちの3人は殴り殺された疑いがあった。吉村が収容所近くに野菜畑を作ったことがあり、収穫した野菜を捕虜たちに食べさせたことがあった。そのとき収穫した野菜は他の収容所にも配られた。それが吉村がした唯一の善行だ。
このことが明るみに出てから吉村は一躍有名人になり、大勢の野次馬が吉村の顔を見ようと押しかけた。吉村に会った人々は誰もが、「どう見てもリンチ殺人のボスには見えない雰囲気の人物」と感想を語った。野次馬根性で吉村の姿を見に来た人々にも、吉村はきさくに応対していたようだ。
「収容所では長谷川一夫に似てると騒がれたりしていたんですよ」
「吉川元隊員は、リンチ殺人の犠牲者を2000人だと言っているが、吉村隊には全員で700人しかいなかった」
「自分は正しく生きてきた。何も恥じる事はない」等々、訪問客相手に語ったという。
〔昭和24年3月23日〕 最初の報道から実に8日後のこの日、元隊員らは吉村隊長を告訴した。〔昭和24年3月25日〕 朝日新聞朝刊に、前回とは別の元隊員らの証言が掲載された。
宮本元隊員の証言
憲兵時代から吉村を知っていたが、収容所での吉村は人が変わったようだった。長谷川隊・隊長の長谷川大尉を営倉(※営倉=@陸軍懲罰令により罰を受けた者の留置場/Aそこに留置される罰のこと)に押し込めて、吉村自らが隊長になった。隊長が営倉送りで不在となった長谷川隊と吉村隊は合併。吉村隊は倍以上の人数になった。
命令をきかなかったという理由で、吉村に126日間も営倉に入れられたことがある。その後、また命令を断ると、〔3日間の絶食と3日間の“暁に祈る”によるリンチに処す〕と決定された。極寒の11月に、部隊入口の電柱に縛り付けられて“暁に祈る”をさせられ高熱を出したが寝かせてはもらえず、石切り場の作業しろと強制された。このような吉村のリンチで死んだ捕虜は少なくとも36人いる。
横田元隊員の証言
昭和21年12月、支給品の靴をごまかして食糧と交換したことで、自分を含む16人が“暁に祈る”のリンチを受けたが、その時は全員無事に朝を迎えることができた。吉村と取り巻き連中は、暖房に当りながら酒を飲んで監視した。夏には“熱砂の誓い”というリンチもあり、炎天下に縛り付けたままにされた。
鎌谷元隊員の証言
昭和21年12月13日、ノルマが達成できなかったので“暁に祈る”のリンチを受け、鉄格子だけの小屋に閉じ込められたが、凍死の恐怖を感じて小屋を脱出した。それが吉村に知れると殴る蹴るの暴行を受けた。
〔昭和24年3月26日〕 告訴から3日後のこの日、東京地検に特別捜査部が設置され、『モンゴル吉村隊の記録』に本格的な捜査のメスが入る。
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