一度はじっくり調べてみたいものだと誰もが願う(ほんとかよ?)「残酷なことで有名」な古代中国の刑罰。
ここでは「五刑」はすっ飛ばして、「刑罰の内容=どんな目にあうのか」を紹介することにした。
これらは(かなり大雑把だが)、大きく分けて4つに分類することができる。
@ 財産刑 ― 金品による罰金、没収
A 労役刑 ― 強制労働 (一口に労働といっても、この労働は想像以上に苛酷なもので、死者も多く出た)
B 肉
刑 ― 肉体の一部に損傷を与える刑罰
C 死
刑 ― 文字通り、死に至らしめる刑罰
@とAについては、程度の差はあるにせよ、現代でも想像の範囲だと思われる。
そこで今回は、BとCについてのみ内容を解説。
● 肉 刑 ●
〔 1. 黥 刑
〕 被刑者の顔に入墨を彫る刑(上腕に彫ることもあった)〔墨刑〕ともいわれる。
〔 2. 敲 刑
〕 被刑者を棒で叩く刑(鉄の棒や鋲や釘のようなものがついた棒を用いることもあった。
〔杖刑〕ともいわれる。
〔 3. 烙印刑
〕 被刑者の顔、または上腕部に烙印を押す刑。〔焼印刑〕ともいわれる。
〔
4. 劓 刑
〕 被刑者の鼻を削ぐ刑。〔はなそぎ刑〕ともいわれる。(同様に耳を削ぐ刑罰もあった)
〔 5. 断指刑
〕 被刑者の指を切り落とす刑。
〔
6. 臏 刑 〕 被刑者の足を切り落とす刑。
(左足の時は「斬左趾」、右足の時は「斬右趾」と命名されていた)
〔
7. 宮 刑 〕 被刑者の性器を切断する刑。これについては様々な説があるため、下記にて別途解説。
〔 宮 刑 〕
宮刑は他の刑罰と違い、時代によっては「死刑よりも厳しい刑罰」として位置づけられていたようである。この刑罰は、別名〔羅刹(らせつ)〕、〔腐刑(ふけい)〕とも呼ばれていたが、〔腐刑(ふけい)〕と称される由縁は、傷口から悪臭を発するからだといわれている。
本来、宮刑とは姦淫罪に対する刑罰で、犯罪時に使用した身体の一部に直接害悪を加える“反映刑”だったが、漢の時代になるとその意味は薄れ、正刑としてではなく、死刑に代わる代替刑として採用されるようになったのだという。
「被刑者の性器を切断する刑罰」である宮刑は、原則として男性を対象にしたものだが、実は女性にこの刑が科されたケースも若干あったらしいのだ。このあたり、実に気になるところである。
これについて調べたのは、もうずっと以前のことだが、その中でわかったのは大体下記のようなものだった。
宮刑 ― 男性の場合
性器の切断については、「睾丸のみ」の“シングル切除”の場合と、「陰茎&睾丸」の“ダブル切除”の場合があるが、実際に刑罰として科した割合は「陰茎&睾丸」の“ダブル切除”の方が圧倒的に多く、また切除による死亡率も高かったという。
尚、男性については、宮刑を科された者の多くが、その後宦官となり、宮廷に仕えた。
宮刑 ― 女性の場合
女性のケースを調べると、本によって記述が違うので困惑する。
中でも一番多く出くわすのは、「女性の場合は宮中に幽閉されるだけ」というもの。『尚書・呂刑伝』などにもそう記述されており、この“幽閉説”は、ある意味通説になっているらしいのだが、なんだかそれって納得いかないのである。ちなみに、『百虎通・五刑』には、女性の場合も「淫すれば、その勢を割去するものなり」とあったりする。
では、「割去」とはどうするのか?というのを突き詰めて調べてみた。
すると、私好みの説があるではないか。なんと女性の場合は「性器を閉鎖」、つまり「縫いつけてしまう」というのだ!ドヒーッ!
好みの説だし面白い説だ。しかし「それには少々無理がある。」と、私は思った。
(たとえば生理なんかはどうするの?とか、あとで切開すれば復活可能なんじゃない?とか・・・。こういう時、「自分に嘘をつかない」ってのは、結構大事なことだ。)
で、さらに調べた結果、「子宮にダメージを与えて子供を産めなくする」という説を発見。腹部を強打する等の方法で、機能を破壊したというもの。中には内臓破裂で死んでしまった人もいたとか、結構生々しい記述が残っていたりする。どうでしょう?「縫いつける」よりも、こっちの方が頷ける気がしませんか?
これについて詳しくご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示くださいませ。
■ 尚、性器の切除により生殖能力を奪ってしまえば、家系が絶えることになり、先祖供養を人倫の最重要項目におく儒教においては、宮刑は一種の追放刑(大きな意味で「人類の歴史の営みからの追放」)として認識されていたとの説もある。
■ 東洋最高の歴史家といわれる「史記」の著者・司馬遷(しば
せん)は、友人をかばったために武帝(前漢七代目皇帝)の怒りにふれ、宮刑を科せられた。これは司馬遷に大きな衝撃と恥辱を与えたといわれる。その後、司馬遷が友人に送った手紙には、彼が自殺を考えながらも「史記」完成のために生き長らえようとする悲壮な決意が記されているという。
死刑 − @ 棄市刑
(首切り・打ち首の刑)
一般的な死刑は、この棄市刑で行われた。
不道罪(人倫道徳に反する行為)を犯した時は、大抵この棄市刑が適用されるのだが、その「不道」が何に当たるのかは、その時々で決まるようで定かではない。そのへんが当時のこっわーいところである。
処刑は、男性の場合は公開で執行される決まりになっており、場所も刑場ではなく、大衆が集まる市街地で行われた。
死刑 − A 腰斬刑
(胴体切断の刑)
腰斬刑は、棄市刑よりも一段重い罪に適用される。
この刑罰には、「腰を斬られる」だけではない怖さがある。この刑は「被刑者の家族も同時に処罰される」という制度がプラスされており、家族の処刑は腰斬刑よりも一段低い棄市刑と決められていた。
これを縁座と呼ぶ。
この刑罰を適用する場合の罪状は、大逆不道罪というものが多かったそうだが、これはいくつかの罪を総称して呼んだものだという。ちなみに、下記のような罪状が多かったようだ。
● 皇帝・国家に対する反逆行為や皇帝を欺く行為
● 皇帝や国政を誹謗する行為
● 国家転覆を計る・謀反企てる等の行為
死刑 − B 凌遅死刑
(ゆるやかな死)
古代中国の歴史上、もっとも重く、もっとも残酷といわれる刑罰
「凌遅」とは、「緩やかな傾斜」という意味である。この凌遅死刑とは、「ゆっくり苦痛を味あわせて死に至らしめる刑」のことをいう。明代の法律では、「国家を危うくする謀反と皇帝の土地、墓、宮殿等、皇帝の所有するものを荒らす大逆不道罪を犯した者は、主犯・従犯に関係なく凌遅死に処す」と定められていた。
(腰斬刑と同じ罪状だが、「時代によって適用される刑罰が違う」のだ。古代中国の刑罰の歴史を見ていると、こういうことがよくある。)
そしてこれらは、のちの清代にも受け継がれる。
ちなみに中国史を読んでいて、「反乱を起こした○○は死刑に処せられた」と書かれていたら、その死刑の方法は十中八九、この凌遅死刑だと思って間違いないのだとか。
では、それが実際に行われていた頃のかなり怖い記録が残っているので、全文を紹介してみよう。
〔
凌遅処刑の様子を伝える明代の記録〕
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公開処刑を一目見ようと群集がまわりを取り囲んでいた。
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受刑者は立った姿のまま機具に手足を縛りつけられている。
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受刑者のまわりを3人の執行人が囲む。
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3人の執行人の役割は、1人が肉をつかむ役、もう1人がその肉を削ぎ取る役で、残りの1人は判決文の「この者は何回切り刻め」と書いてある回数まで、受刑者が出来るだけ死なないように止血などの手当てを行う役目だ。
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3人のうち、上級の執行人が判決文を読み上げ、あとの2人がそれを繰り返して叫ぶ。
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爆竹が鳴らされ、いよいよ刑が執行される。
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まず、最初にまぶたの皮を剥いで、それを受刑者の目を覆うようにして置く。
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ある回数まで切り刻むと、大砲が撃ち鳴らされ、赤い旗を持った男が早馬で皇帝のもとへ報告に向かう。(ここで皇帝が回数の減免を支持する場合もある)
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判決文の回数に達すると、受刑者の死体の解剖が始まり、心臓を吊るして人々に見せつける。続いて首、胴体と吊るされていく。
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再び早馬が皇帝のもとへ向かい、刑の終了が報告される。
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その後、執行人が削ぎ落とした肉を売り始める。(当時、人肉は薬になると信じられていた)
以上のケースでは、削ぎ落としたり、切り刻んだりしているが、別の記録では、「受刑者の体はハリネズミのようになっていた」というのもあり、こちらはなにか長い刃物か串のようなものを次々と刺したようにも思える。
しかしまあ、こうも淡々と書かれると怖いものがありますね。
宋代の凌遅死刑は手順が定められていたようで、それには「四肢を断ってから喉をえぐる」とある。どうも、その時代の皇帝によって、刑の残酷度が少しずつアレンジされていたようだ。
また元代では、切り刻む回数を一律120回と定めていた。
(※ 実はこの刑では1回を30回分と数えていたので、上記の場合だと実際に切り刻む回数は4回である)
ところが、明代になると、この回数が飛躍的に増える。
中には、「3000回以上も切り刻まれた」というケースがあり、(少なく見積もっても100回である)回数が多い分、なかなか殺してもらえず、ヒドいのになると、「3日間も責め続いた」という記録が残されている。
しかも、本来は国家に刃向かった者に適用する刑罰であるはずが、それ以外にも適用されたケースは多々あったようで、権力を欲しいままに好き勝手した宦官や、役人に嘘をついた者、姦淫した女性にも行った記録が残っている。
当時、処刑は庶民の間では娯楽としての見世物になっていたので、時にはその刑罰に相当しないような罪状でも、見世物的に行っていたとも考えられる。そのような風潮は中世の魔女狩りに代表される火あぶりや、フランス革命後の恐怖政治の時代のギロチンによる公開死刑の場でも見られた光景である。
それらの刑場には見物人が多くつめかけ、まるでお祭りのようなにぎわいだったという記録もある。見物人相手に商売をする露天も多く集まった。
凌遅死刑に話を戻すと、私はこの刑の執行風景を写真で見たことがある。しかも絵葉書で。
当時このような写真は、ヨーロッパでは「東洋の珍しい風習」をおさめた写真ということで人気があったようだ。絵葉書や写真集にもよく使われていたという。私が見たのもそういった絵葉書の中の一枚だった。
私が見た写真に写っていた被刑者は女性で、全裸で立たされ、機具に腕を縛りつけられて固定され、両方の乳房と太ももの肉を削ぎ落とされていた。削がれた部分を見ると、ほとんど骨が露出していた。そのように、かなり深くえぐられているのが見てとれるのに、意外なほど血が流れていなかった。
それほど徹底した止血をほどこしていたのだろう・・・と、思わずにはいられない写真だった。
ちなみに、この女性の髪は縮れていて、肌も浅黒かった。どう見ても「異民族」だった。
当時、中国に多くいた胡人やその他の異民族にスパイの疑いをかけ、根も葉もない罪を着せた上、娯楽と見せしめのために処刑した例も多いのではないだろうか。
そう推測したくなるほど、まわりを取り囲む群衆は、こぼれんばかりの笑顔で笑っていた。
あの無邪気な笑顔は、今でも忘れられない。
凌遅死刑が廃止されたのは、1905年。
清代に、「これを永遠に削除して、すべて斬首に処す」とされた。
清もいよいよ滅亡する手前になってからのことである。
※ 古代中国の刑罰は他にも「皮剥ぎ刑」など、色々な刑罰がある。なかなか奥が深いので、知ってみたい方はぜひ勉強されたし。「もうしません」な怖い刑罰がいっぱいあります。
ちなみに、肉刑の多くは、前漢の文帝期に廃止されたものの、宮刑だけはそのまま残ったそうで、六世紀末の隋代に廃止された。
「肉刑復活すべし」を主張していた曹操
三国志で有名な曹操は、肉刑を復活することを論じ、かつ命令していた。
曹操、いかにも言いそうですね〜。似合いすぎです。
曰く、
「いかにすれば道理をわきまえ古今のことに通じている君子を得て、この事を処理させられようか。
かつて陳鴻臚(=陳紀)が死刑には“仁愛温情を加えなければならないものがある”と主張したのは、まさにこのことを述べているのである。御史中丞は、その父(=陳紀)の論を具申することができるか。」
陳羣の答曰く、
「臣の父の紀は以下のごとく主張いたしました。漢は肉刑を廃止して笞打ちの刑を増やしました。
本来愛憫の情から発したものですが、死ぬ者が非常に多く、いわゆる名称は軽くても実質が重いことになっております。かといって名称が軽ければ法律を犯しやすく、実質が重ければ人民を傷つけます。
『尚書』に、「これ五刑を敬しみて、以て三徳を成せ」とあり、『易』には劓 刑(はなそぎ)・臏 刑(足切り)、または滅趾(足首を傷つける刑)の法を書き記しておりますが、政治を支え、教化を助け、悪をこらしめ死刑をやめるためのものとしてあるのです。
人を殺した場合、死によって償うのは、古代の制度に合致しておりますが、人を傷つけた場合までも、「笞打ちによって」その身体をそこない毛髪を断ち切るのは、道理からはずれております。
もし古代の刑を採用し、姦淫を犯した者は蚕室(=宮刑を施す部屋)に渡し、盗みをはたらいた者はその足を断ち切れば、永久に淫蕩や人の家にしのびこむ悪事はなくなりましょう。」
三千(=五刑を適用される罪の種類)を、すべて復活することはできませんが、上に挙げられているいくつかの罪は、今の時代において頭痛の種となっていることでして、先に施行すべきかと存じます。
漢の法律でも殺人による死刑の罪は仁愛の及ぼす余地のないものですが、その他の死刑の判決を受けている罪については、減刑すべきかと存じます。
そのようにすれば、刑に処された者も生者の仲間に入れましょう。
今、笞で打ち殺す法によって、かつての死刑以外の刑、肉刑の代わりをさせていますが、それは人の手足を重視して人の本体や生命を軽視することです。」
この時、鍾ヨウは陳羣の意見に賛成したが、王朗はじめ意見を述べた者の多くは、「まだ肉刑を実行すべきでない」と主張していた。
鍾ヨウ・陳羣の言葉に深く賛意を表した曹操だったが、軍事行動がまだ終わらない時ということもあり、多数の意見を考慮して、この時はひとまず「沙汰やみ」としたらしい。
いずれにせよ、こういう発言力も発言権も尋常じゃない人が「復活させろ」とかいうと怖いですね〜。
世界拷問刑罰史
酷刑 血と戦慄の中国刑罰史