フランスのルーブル美術館所蔵の絵画
『メデューズの筏(いかだ)』は、写実主義絵画の先駆者と評されるテオドール・ジェリコーが描いた大作だが、歴史的大事件を描いた傑作としても広く知られている。
この絵は、1816年に実際に起きたフランス海軍のフリゲート艦『メデューズ号』の悲惨な海難事故を題材に描かれたものである。
縦4.71m、幅7.16mの巨大なキャンバスは、恐怖と不安に包まれ、絶望で塗りつぶされている。漂流者の心理が透けて見えるような傑作である。
1816年6月18日 メデューズ号は3隻の僚艦を伴いフランスを出港した。
目的地はセネガルの港町サン・ルイである。
今日、セネガルといえば独立した共和国であり、首都は“パリ・ダカ”こと“パリ
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ダカール・ラリー”で有名な港湾都市のダカールだが、1816年当時のセネガルはフランス領だった。
メデューズ号のセネガル行きは、新任総督と総督府の要人や兵士らの足になり、現地へ運ぶことを主目的とした輸送であった。
1816年7月2日 大西洋を南下したメデューズ号は、目的地のサン・ルイまで残りわずか約500kmのアルギン岬で座礁事故を起こしてしまう。
フランスの新聞、コルレアール(Correard)紙は、この座礁は艦長の無能によるものだったと報じている。メデューズ号の船長だったショーマレイは、かつて革命を避けるために国外逃亡していた貴族で、王政復古で帰国したばかりだったところを、当時の国王ルイ18世から海軍に任官するようにと命を受けただけで、艦長としての経験も資格ない無能な者が出した間違った指示が艦を座礁させるに至ったのだという。
1816年7月6日 事故を起こした直後からこの日まで、メデューズ号は離礁する努力を続けていたが、ことごとく失敗してしまう。
自力での離礁は無理だと判断したショーマレイ艦長は、それ以上の努力をやめさせ、代わりに大きな筏を作るよう指示を出した。同6日、マストと帆1枚がついた筏が完成した。
さて、筏と聞いて、普通思い浮かべるのはどんな大きさだろうか。出来上がった筏は一体どれぐらいの大きさだったのだろう?「大きな筏」とだけ表現されているこの筏は、決して「大きな筏」ではなく、実は「超巨大な筏」だったのではないだろうか。
同6日、ショーマレイ艦長は、出来上がったばかりの筏に、乗客・兵士・水兵たち149人を移し、それ以外の女性1人を含む、総督ら要人などの残りの全員を救命ボートに分乗させて艦を棄てた。
筏に乗せられた149人に与えられたのは、これらだけだった。
● 12.5kgのビスケット
● 数樽の飲料水とワイン
7月6日 漂流の初日
最救命ボートと筏はロープで繋がれ、先頭のボートのが漕いで筏をひいていたようだが、嵐に見舞われたため、艦を棄てて間もなくボートと筏を繋いでいたロープが切れてしまった。
これにより、これ以降は 〔
筏 〕 と 〔
ボート 〕 は、2つのグループに分かれてしまう。
〔 筏 〕 漕ぎ手を失った筏は波と風にまかせになってしまい、次第に陸から離れて、沖へ沖へと押し流されていったようだ。沖へ出てしまうと、巨大な大波が何度も襲いかかった。激しい波は、お互いの体を綱で結んでいる筏の上の人々を、1人、また1人と、次々に海底へ引きずり込んで行った。
● この日、漂流の恐怖から泥酔し、正気を失った3人の水兵らが海に飛込み自殺した。
● 夜になると、飲料水の入った小さな樽を奪い合って、乗組員同士が集団で争い始め、狂ったようになり、互いに相手を海に突き落とす争いに発展した。
7月7日 漂流2日目
〔 筏 〕 夜が明けると、筏から65人が消えており、筏の上には7つの死体が転がっていた。しかも昨夜の乱闘の最中に、発狂した兵士が、筏の土台となる材木同士を束ねていたロープを断ち切ってしまった。そのため、筏は皆の膝の高さまで浸水していた。
この時点で生き残っていたのは約60人だが、彼らも飢えと渇きから錯乱状態に陥ってしまう。
7月8日 漂流3日目
〔 救命ボート 〕 ショーマレイ艦長らは、全員無事に目的地のサン・ルイにたどり着いた。
〔 筏 〕 生き残った人々は飢えを紛らすために革ベルトやアゴ紐を囓っていたが、とうとう筏の上に転がっている死体の肉を口にすることに決める。さすがに屍の生肉を食べることには抵抗があったようだ。彼らは肉を日干しにてから食べた。
7月9日 漂流4日目 〔 筏
〕
生存者たちは、筏の上に残っている死体の中から、一番痛んでいない死体を選びだし、それ1体だけを食用に残すことに決め、残りの死体は全部海に投げ棄てた。
しかしこの後にまた乱闘が起きる。今度は飲み水の割り当てが原因だった。
7月10日 漂流5日目 〔 筏
〕
生存者の内、約15人が殺しあう。日干しにした死体の肉の奪い合いだった。
7月12日 漂流7日目 〔 筏
〕
助かる見込みがないと判断された負傷者が海へ投げ棄てられた。
この日、白い蝶々がマストの周りを飛んでいたため、生存者たちに陸地が近いのではないかとの、期待を持たせた。蝶々を見て興奮した数人が、海に飛び込み泳ぎ出そうとしたが、すぐにあきらめて戻ってきた。飢えと渇きで泳ぐ力がなかったのだ。
7月15日 漂流10日目 〔
筏 〕
この日、生存者数人が自殺を図った。
7月17日 漂流12日目 〔
筏 〕
1隻の船が水平線に現れたが、遠すぎる船に気付かせる方法は何もなかった。
絶望的な気持ちになりながらも生存者たちは、日射しを避けるためにテント代わりにしていた帆布に、救助を求める文字を書き始めた。
その時、捜索に出ていた軍艦『アルギュス号』が約3キロほどのところにいるのが彼らの目に映ったが、アルギュス号は遠ざかって行こうとしていた。生存者が絶望感に包まれた時、やっと船が彼らに気付き筏の方へ引き返してきた。
命からがらで『アルギュス号』に救助されたのは、筏に乗せられた149人の内、たったの15人だった。
● 画家
テオドール・ジェリコー
この頃、すでにイタリアでフレスコ画を描く画家として名を知られていたジェリコーは、『メデューズ号』の事件に強烈な衝撃を受けた。
彼はまず、生存者たちを集めて漂流時の体験を聞き出した。その後、大工に頼んで筏を再現して、当時の様子を検証してみて、何枚も構図を描いてみた。そして『メデューズの筏』を大きなキャンバスに描こうと考えつき、すぐにそのためのアトリエを借りた。
それからは、病院に通って病人の様子を観察したり、苦痛の表情を写生したりした。
また研修医や看護師に頼んで、死体や切断された手足を見せてもらってスケッチした。
ジェリコーは、いわゆる“コレと決めたら凝りまくる人”だったのだ。
『メデューズの筏』の制作に取り組んでからの8カ月間、
ジェリコーは死体置き場とアトリエの往復と背景の空模様の写生に出る以外は、アトリエに閉じこもり出てこなかったという。
また、世俗の誘惑を断って制作に集中するため、髪を剃って頭を丸めたという話も残っているほどである。 ・・・ジェリコーって、「空手バカ一代」みたい。
● 大作完成後
こうしてようやく完成した『メデューズの筏』は、1819年8月25日に開かれた王立アカデミー主催
の美術展《サロン》に出品されるやいなや、論争を巻き起こした。
ジェリコーの作品は、悪い意味で人々の関心を集めてしまったのだ。
あまりにも凄惨な表現に、政治的な抗議の暗喩を見た思いがしたのではないかといわれている。
慢性的な情勢不安のせいか、誰もがこのジェリコーの作品を「政治的抗議を表現した絵」と決めつけて、厄介者扱いしたのだ。
それでもルーブルが絵を買い上げると名乗りをあげた。
しかしルーブルの真の目的は、厄介な絵を「封印」することにあった。購入後、即、キャンバスを枠から外して、ポスターのように丸めて屋根裏に片づけたのだ。その上、ジェリコーに代金を払おうともしなかった。ルーブル美術館は、この時、画家からタダで絵を騙し取り、世間の目に触れない場所に埋葬する役目をかって出た墓掘り番人であり、唾棄すべき芸術の死刑執行人だったのだ。
作品を葬られたことに憤慨したジェリコーは、ルーブルからキャンバスを取り戻し、作品を持ってロンドンに行き、有料で展示会を開いた。これが大当りし、連日長蛇の列ができていたといわれている。
その後もジェリコーは、ロンドンに3年滞在して作品を制作し続けていたが、ある日の落馬をキッカケに病に伏せるようになる。その後パリに戻り、1824年1月26日に死去した。
ジェリコーは死ぬ間際まで、「後世に残る傑作を描けなかった」と、気に病んでいたという。
彼の友人が、「『メデューズの筏』があるじゃないか」と言うと、ジェリコーは、
「バカなことを言うもんじゃない。あれは酒のボトルについているラベルと同じ程度のものだ。」
と、苦々しげに吐き捨てたという。
● メデューズ号の事件についての後日談
メデューズ号の事件は、最初の海難事故の発端が操艦ミスである疑いがあるとと、その後の筏の漂流中に134人が凄惨な最期をとげていることなどから、当時、事件の真相は厚いベールで覆われていた。
@ メデューズ号がフランスのどこの港から出航したのか
A 当初一緒に出航したはずの3隻の僚艦はどうしていたのか
B 救命ボートは全部で何艇あったのか
上記のようなことも、当時のメディアには一切明らかにされていない。
これについては、多分、海軍の体面のために肝心なことは隠したのではないかといわれている。
艦長デュロワ・ド・ショーマレイ伯爵の経験無能さと冷酷さを鋭く指摘し、事件を詳細に調査・報道した1817年10月28日付のコルレアール紙は、当局によって発行禁止処分を受けている。
テオドール・ジェリコー
< 1791〜1824 >
メデューズ号の筏
1819年

画布
縦4.91m; 横7.16m INV 488
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フリゲート艦メデューズ号の遭難者149人がセネガルの沖合で12日間筏で漂流した事件は、画家ジェリコーに大きな刺激を与えた。
この絵は1816年7月17日、軍艦アルギュス号が遠ざかって行ったとき、15人の生存者が感じた絶望をまざまざと伝えている。結局船は引き返し、彼らは救われることになる。
画家が社会的な事件をこのようなスケールで新しい主題としてとりあげたのはこれがはじめてである。この記念碑的大作は、テーマの暗さに色彩と瀕死の人々の迫力あるリアリズムがあいまって、1819年のサロンで論争の的になり、ロマン主義最初のマニフェストとなった。
ルーブル美術館オフィシャル・サイト
http://www.louvre.or.jp/ |
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18〜19世紀の美術史が古典派からロマン派へ流れを変える中、フランスのロマン派の最初の画家として彗星のように時代を駆け抜けていったのが、テオドール・ジェリコーである。
どの作品に対しても、常に狂気にも似た傾倒をもって対象に執着し、とり憑かれたかのような一途さで作品に挑むことで有名なジェリコーは、33年で短い生涯を閉じた情熱の画家である。
彼の作品は「“芸術”とは何なのか?」という問いに対する答えそのものだといわれる。他人の称賛や社会的な名誉、金銭的成功といったものから最も遠い動機から生まれるものなのだと。 |