1845年5月19日
イギリスを出発したフランクリン探検隊は、決して若いとは言えない59歳の探検家ジョン・フランクリン卿を隊長とする士官23名と船員111名の総勢134名からなる探検隊である。
彼らは、(なんでこんな名前にしたのか)“エレブス号(地獄)”と“テラー号(恐怖)”という二隻の帆船に分乗して、意気揚々と旅立った。
フランクリン探検隊の目的は、北アメリカ海岸を大西洋から回航、ベーリング海峡を通過して太平洋に抜け出る北西航路の発見にあった。
もしこれに成功すれば、これまでよりずっと安全な航路で、航海期間も短縮できるはずなのだ。この夢の航路発見にイギリスは賭けていた。
イギリスはこの方面ではスペインやポルトガルより遅れており、北西航路の探検が本格的にされ始めたのは1818年からだった。しかし1回目の探検隊長は、ランカスター海峡は山脈にはばまれていると思い込み、途中で引き返してきた。
翌年、2回目の探検隊が派遣された時は、それまで到達できなかった島々を発見するなど、前回よりいくらか前進したが、途中で食料が乏しくなってきたため、やはりそれ以上先に進むことなく帰還していた。
ちょうどその頃、若き日のジョン・フランクリンは、地図製作のためにハドソン湾西部一帯を徒歩で調査する極地探検隊の一員だった。しかしその探検は悲劇的な結末を迎えた。病気と寒さに加えてインディアンの襲撃を受け、30名の隊員のうち生還できたのは、わずか7名だけだった。ジョン・フランクリンは、その数少ない生き残りの一人だったのだ。 (※右上の画像はフランクリンの肖像)
1845年7月4日
約2ヶ月前にイギリスを発ったエレブス号とテラー号は、グリーンランドの西海岸にあるディスコ島に立ち寄り、補給船からおよそ3年分の食糧品と飲料水、燃料などの補給を受けた。
1845年7月27日
エレブス号とテラー号は、ランカスター海峡の入り口で、“プリンス・オブ・ウェールズ号”と“エンタープライズ号”というイギリスの捕鯨船に出会った。
フランクリン探検隊の船が人目にふれたのは、これが最後だった。この日以来、これら二隻の船はプッツリと消息を絶ったのである。
1846年が過ぎ、1847年の初夏が訪れる頃、彼らの身を案じる不安の声が広がり始めた。イギリス海軍省は次のような発表を行った。
「フランクリン隊が二度越冬するのは予定の行動であり、船には3年分の食糧を積んでいるため、そちらの方の心配は無用である。我々は、彼らが順調な航海を続けていると信じている。今秋には、同方面を航海する捕鯨船がフランクリン隊の消息を伝えてくれるだろう」
しかし、1847年が過ぎ、1848年になっても、フランクリン探検隊の消息は絶たれたままだった。

人々のあいだで遭難の噂が立ちはじめ、イギリス海軍省でも、このまま放っておくわけにはいかなくなり、ついに1848年6月第二次北極探検隊を組織した。
この第二次北極探検隊は、実質的にはフランクリン捜索隊だが、表向きは「フランクリン隊の補給に向かう」という理由で旅立った。
彼らはランカスター海峡一帯を捜索したが、結局なにひとつ手がかりを得られないまま、翌年の秋、イギリスに帰還した。
フランクリン隊が探検に出かけてからすでに4年以上経った。
依然消息は途絶えたままだった。
この頃になると、彼らは無事だという楽観論は影をひそめ、国会でも度々問題として取り上げられていた。そして、およそ4000の教会で、大衆が彼らの無事を祈り続けていた。
イギリス海軍省は、再び捜索隊(帆船三隻、汽船二隻)を送ることにした。
アメリカ政府も二隻の船を出して捜索活動に協力した。またカナダのハドソン湾商会も探検隊2つを組織した。フランクリン夫人も独自に捜索隊を組織した。
帆船一隻を手配し、船長に一切をゆだねた。
その後も何度か捜索の手は差し伸べられ、合計30隻を超える探索船が北極に派遣されたが、イギリスから派遣した14隻のうち8隻は、沈没もしくは行方不明となり、フランクリン隊以上の人命が失われた。
多大な損害を出した捜索だったが、何度かの捜索でフランクリン隊の足取りが見えてきた。
捕鯨船によってフランクリン隊の船が最期に目撃された1845年7月以降、北上を続けていた彼らは、秋から海峡に新しい氷が張り詰め、船の航路を塞がれてしまう。
進むことも戻ることもできない状態にまで氷が張り詰めたため、二隻の船は仕方なく近くの島陰で越冬することにした。
そのあたりの海は1年のうち8ヶ月は氷に閉ざされていた。
1846年2月
隊員たちは近くの島に狩に出かけ、新鮮な肉を補給した。次第に日が長くなり夏になるが、極地の厚く張り巡らされた氷から開放されるには時間がかかった。
やっとの思いでフランクリン隊が船を動かせたのは、その年も秋になってからだった。
その間に3人の隊員が命を落とした。
彼らの小さな墓が救援隊に発見されたのは、それから5年後のことだった。
氷から解き放たれたフランクリン隊は、南方に開いた航路に向かった。
狭い海峡を過ぎ、さらに南下すると、アメリカ大陸に近接するキング・ウィリアム島が見え出した。あますところ、あと200kmというところだった。
しかし、そこで再び氷に氷に閉じ込められてしまった。
1846年9月12日
潮流に乗って運ばれてくる氷が、あとからあとから船の周りに積み重なり、まるで岩壁のような大きさに凍りついた。
この時からフランクリン隊の悲劇がはじまった。
今度は前の年よりもずっと条件が悪い場所だった。
周りには島もなにもなく、船はまさに氷に引っかかった小枝のような状態で氷にもまれていた。
船全体が氷に圧迫されてギシギシと軋んだ音を立て、いまにもバラバラになりそうだった。
船から一歩も降りられない幽閉されたような船の生活で、唯一の気晴らしは食事だったが、その食糧もだんだん残り少なくっていった。
彼らは確かに3年分の補給を受けていたが、探検隊に肉の缶詰を納入した男が悪徳業者で、納入したうちの1000個以上もの缶に腐った肉やオガくず、小石などを詰めていたのだった。
こうして2年目の冬が過ぎた。
やがて夏がやってきたが、船は依然、氷に閉じ込められたままだった。
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