人民寺院事件/信者900人集団自殺


1931年 ―

のちに人民寺院の教祖として知られることになるジム・ウォレン・ジョーンズは、インディアナ州の郊外で生まれた。母親のリネッタは、地元のボランティア活動に積極的に参加する、弱者救済に尽くした人で、一人っ子の彼を溺愛し、「息子は生まれながらの聖職者だわ」と周囲に得意げに語っていたという。
彼自身も幼い頃から母親が期待するとおり、立派な宗教家になろうと決めていた。


ジム・ジョーンズ 8歳で聖書を暗唱し、12歳になる頃には、近所の子供たちに本物そっくりに説教を行い、うやうやしく洗礼まで施していた。そうしてちゃっかり子供たちから「お布施」をせしめていたため、ジムが小遣い銭に困ることはなかった。

ジムの父親は
KKK(クー・クラックス・クラン)の狂信的信者で、筋金入りの人種差別主義者だったが、ジムが12歳の時に家族を捨てたという。
※リンク元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』        

ジムは異常な動物好きで、しょっちゅう野良猫や野良犬を拾って帰ってきたという。が、奇妙なことに、彼が拾って帰った動物たちは、みんなすぐに不審な突然死を遂げてしまうのだった。それらの動物が死ぬたびにジムは涙を流し、自らの手で死骸を埋葬して、見よう見まねで葬儀を執り行なった。
17歳の時、当時メソジスト派の牧師になるため実習生になっていたジムは、21歳の看護婦マルセリーヌと出会い、すぐに結婚した。そして直後、ジムは急にメソジスト派を脱退した。


1957年 ― 26歳

訪問販売の仕事で資金を作ったジムは、自らを教祖とする教義を掲げ、教会を設立する。
その看板には
“人民寺院 (People's Temple)”と書かれていた。
     

当時のインディアナポリスは、住民が白人から黒人へと急速に入れ替わりを見せていた時期だった。

そんな中、人民寺院は急速に町の人々の心を惹きつけていった。ジムは精力的で演説の才能があり、不思議とカリスマ性を感じさせる男だった。教団設立当初は資金難が続いた。「人種融和思想」が人々に受け入れられず、教団の運営はかなり苦しいものだったという。

       

1950年代末のアメリカでは、テレビやラジオは市民運動や黒人の社会参加に共鳴し、アメリカ全土がそういった風潮に揺れていた。そうした時節をよみ、ジムは黒人住民へのアピールを考慮に入れたピーアールを展開して、自らを社会的な宗教活動家として世間に知らしめることに成功し、教会の規模は飛躍的に膨らんでいった。


1959年 ― 28歳

マルセリーヌとの間にもうけた2人の子供のほかに、黒人と韓国人の子供を養子にし、彼らが自ら「レインボウ・ファミリー」と呼んでいた家族を築きはじめる。ただし、10代の頃、ジムは完全な白人至高主義者だったという。唇を歪めて「ニガーどもが」と吐き捨てるような男だったのだ。

教会の名はますます有名になり、インディアナポリスの町中に人民寺院のポスターが貼られるようになった。そのポスターには、
「ジムは偉大なる説教師にして預言者であると同時に、優れた心霊療法士でもある。」という宣伝文句が書かれていた。また人民寺院は、救済活動として恵まれない黒人たちにベッドと食事を与え、仕事を世話してやったりもしていた。

そうすることで生まれる安い労働力を巧みに利用して、ジムは人民寺院に金を流れ込ませるためのビジネス基盤を着々と築いていた。



こうした成功が、さらに多くの入信者を呼び寄せることになった。

その中には裕福な白人たちも含まれており、人民寺院はみるみるうちに地域一の規模を誇る宗教団体に成長していった。

ジムの教団は、聖歌隊だけで100人を超え、日曜の礼拝の際には多くの群集がつめかけた。人々はジムの行なう様々な活動に喜んで群がった。デモ行進するジム・ジョーンズ

     
ジムは人種差別撤廃を訴えるデモを行い、新左翼の抵抗運動にも参加してメディアの注目を集め、市の人権委員会の議長に任命されるまでになった。しかし、人種問題を熱心に訴える活動ぶりとは裏腹に、彼の側近や教団の幹部連中は、全員白人で固められていた。
教団の一般信者は、圧倒的に黒人の方が多かったにも関わらずである。
(※右の写真は人種差別撤廃デモで行進するジム)

     
しかし、このジムのあまりにも派手な資金集めは、じきに周囲の疑惑を呼びこむことになる。
市の役人達は、ジムが
心霊療法士として過剰な宣伝をしていることに注目し、彼を監視しはじめたが、ジムはその動きをいち早く察していたという。彼はつねに自分の身にふりかかるトラブルに対して、異常なほど神経を尖らせていた。

     
この頃を境に、ジムに精神分裂病(現在は統合失調症とも呼ばれる)の兆候が現れはじめる。

「自分の教団が見えない敵の脅威にさらされている」という
妄想に取り憑かれ始めた彼が敵と見なしたのは、連邦政府と脱会信者だった。ジムはそれらの脅威から身を守るために、身辺警護を強化し、元信者の自宅を見張らせた。自分の命が狙われている!」と、警察に相談したが、取り合ってもらえずに無視されたこともあった。


1963年 ― 32歳

ある日、ジムは突如、信者たちにこう告げた。

「神のお告げが訪れた!世界のほぼすべてを焼き尽くす核の大殺戮がやってこようとしている。ただし、我々のような正しき魂をもつ者たちのために、世界に2箇所だけ安全な避難所が残されている。それは、カリフォルニア州ユキアと、ブラジルのベロ・ホリゾンテである!」

 

これがジムの終末予言の始まりだった。


1965年 ― 34歳人民寺院のプロパガンダ写真

当時、キューバ危機で核戦争の脅威を感じたことや、既存のキリスト教会などから攻撃を受けたため(これには妄想が含まれる)、ジムは本拠地をカリフォルニア州ユキアに移し、忠実な信者達140人を連れてユキアへ移動した。

しかし、驚いたことに、そのユキアで彼はさらに成功することになるのだ。
(※右の写真は人民寺院のプロバガンダ写真)

ユキアに移った後、教団は飛躍的に拡大し、全米各地から多額の寄付金が寄せられた。

活動の人種の融和、弱者の救済で、社会に適応できない人、失業者、前科者、麻薬中毒者などを積極的に支援した。規模の拡大につれ、信者には様々な義務が課せられた。

     
1970年 ― 39歳

サンフランシスコへ移動し、礼拝には何千人という聴衆がつめかけるまでになっていた。

ジムはひたすら天罰を説き、病を治し、貧しい者たちへ食事と宿泊所を提供し、安い労働力を得た。ただし、その規模は以前とは比べものにならないほど大きなものであり、いまや大事業となっていた。彼は地域の委員会に参加し、政治家とコネをつくり、夜間学校の教師まで精力的にこなした。教団はますます拡大していった。
ジムは大粒のダイヤを指に光らせ、鰐革の靴をはいて、キャデラックを乗りまわす豪勢な生活を送るようになっていた。

遂には市長にまで昇り詰め、国政に携わる政治家の訪問を受ける“大物”の仲間入りをした。

地元メディアもそんな彼を熱狂的に支持していた。―― 少なくともこの頃まで、ジムはちょっとしたヒーローだった。

しかし実際は、ジムは感情の起伏を抑えるために様々な薬物を服用するようになっており、妻のマルセリーヌは、不倫が激しくなったジムに愛想を尽かしていた。その頃、子供が睡眠薬を飲んで自殺を図る事件が起きた。

    

この頃からジムは社会主義に傾倒する。ジム・ジョーンズ

洗礼も「聖なる社会主義の名において」行うようになり、“正義と平等を実現する社会主義は神の啓示”だというキリスト教共同体主義(Christian Communalism)を説き、社会主義を通じてのみ人間は自由になれるとした。そう語るかたわら、「ガンが治る」、「目が見えるようになる」といった心霊治療を行っていた。

そして、病気を治す力があるのは、彼がキリストの生まれ代わりだからだと言った。

    
ジムは、(他のカルト教団のご多分に漏れず)

「もっとも崇高な献身とは、すべての財産を教団に寄付し、教団内で生活すること」だとした。

その教義に懐疑的、または反抗的態度を見せることは、「信仰がないから」で、「外界は悪意に満ちた世界だから、彼らの情報に耳を貸してはいけない」と説いた。
    

偉大な心霊療法士であるジムは、また異様なほどの性欲の持ち主だったようだ。
彼はバイセクシャルであり、一日に数人と交わったあとでも、まだ数十回自慰をしなければおさまらない体質だったという。そしてこの手の教団にありがちなことだが、信者内に自分の
「ハーレム」を作っていた。彼は、ハーレムで相手をさせるのも全員白人で固めていた。

     
その反面、彼は信者に禁欲を徹底させ、信者間の結婚の結びつきを弱めようとした。子供たちはできるだけ両親と一緒にいないように隔離された。家族の絆を弱くし、個人の意思と欲望を弱めさせ、より彼らの目が
人民寺院だけに向けられるように仕向けた。ジム・ジョーンズその結果、信者達はあらゆるものを人民寺院に投げ出し、寄進した。

     
段々と時が経つにつれ、しだいにジムは迫害の強迫観念に取り憑かれるようになっていた。
彼は説教で宗教迫害と受難の話ばかりするようになり、
“トランスレーション”という独自の理論をしきりに説くようになり、自分のことを“父なる神”と呼ぶよう信者たちに強いるようになった。


彼が説く
“トランスレーション”とは、「最終的に信者全員が共に死に、その後の魂はひとつになって他の惑星で永遠の至福を得る」という支離滅裂なものだったが、ジムはこの考えに憑かれ、固執していった。「“神”のために“死ぬ準備”を怠ってはいけない!」と叫び、集団自殺に賛成していない信者のリストを作り、皆の前で名指しで糾弾したりしていた。

1973年 ― 42歳

教団へのバッシングが本格化する前に、ジムは教団本拠地を南米のガイアナに移転。

ラジオの全国放送を始め、教団は全国的に有名になり、1973年には入信者は2500人にまで増加していた。ガイアナへ移るために巨額の費用が費やされた。その額は100万ドルを超えていたという。

その資金をもとに購入したガイアナの300エーカー(124万平米)の土地に「ジョーンズタウン」という名のコミューン(集落)が建設される。(※写真下はジョーンズタウンの住居)

ジョーンズタウンの居住区   
ジョーンズタウンへの通信手段は、郵便と短波無線以外まったく隔絶されており、それらの通信手段ももちろん監視されていた。

   

ジョーンズタウンはジムの独裁国家だった。

信者たちは男女別に分けられ、子供は親から隔離されたところに置かれ、劣悪な環境下でシラミや伝染病にあえいでいた。

ジョーンズタウンは、事実上ジムと白人だけの少数の側近が支配する植民地だった。黒人信者たちは灼熱の熱帯で奴隷のように農業に従事させられた。

朝から日が沈むまで農作業をしたあと、強制参加の集会が始まり、夜中2時〜3時まで延々と行なわれたという。

ルールは憶え切れないほど定められており、少しでも違反した者は容赦なく殴られた。

そうした懲罰は日ごとに激しさを増し、拷問と呼べるものへと変貌していったという。

そして女性信者への懲罰は、時々性的な暴力に発展した。

      
ジムは、長期に渡って興奮剤や精神安定剤を常用していたため、妄想はひどくなる一方だった。

暴力によって支配され、外界と完全に隔絶されたジョーンズタウンで、彼の妄想に飲み込まれないで済む者は1人もいなかった。信者たちに禁欲を説いていたかと思えば、ある時は、性的自由のない結婚は反革命的だとし、配偶者の不倫に嫉妬すると公然と非難した。男女を問わずセックスについてあからさまに語るよう強要することもあったという。

     

1973年、ゲイの集まるマッカーサー・パークで男性に猥褻行為をしたとして、ジムは逮捕された。

彼は起訴を免れるかわりに罪を認める文書に署名した。

人民寺院では、ガイアナへ移る前から、すでに集団自殺の模擬儀式のようなものが行われていた。ジム・ジョーンズ

最初にそれが行われたのは、1976年の1月である。

      

その日ジムは、側近の30人を集めると、「今日は禁酒の規則を破って、大いに飲もうじゃないか」と、グラスを差し出した。皆が一気にグラスを空けた後、彼は、「実はこのワインには毒が入っていたんだ。我々はまもなく死ぬだろう」と知らせた。もちろん、それは嘘だったのだが、ジムはその嘘で側近たちの反応を試したのだ。

その次からは、前もってグラスに毒が入っていると知らせてから飲ませるようになった。毒と知っていても、自分のために飲み干すことができるかどうか試すもので、一種の忠誠度チェックとして行われていたようだ。

      

そうした模擬集団自殺は、ガイアナに移ってからだんだん頻度を増していき、いつのまにか日常化していた。信者たちがサイレンで呼び集められ、ジムが「毒が入っている」フルーツ味のジュースを配り、信者は黙って飲み干す。そういうことが度々行われたのだ。ジョーンズタウン最後の年には、なんとこの予行演習は43回も行なわれていた。

それにつれて、信者たちのあいだにある種のマンネリが生じてきていたのも事実である。

      

じつは自殺予行演習が行われる時、食事当番はいつも前もってはずされていた。予行演習が終わったら食事の用意をしなければいけないからだ。だから食事当番がいないことで、信者たちにはそれがただの予行演習だとわかったのだ。


1977年 ― 46歳

この頃になって、ようやくジムの搾取と腐敗、救世主妄想に嫌気がさした信者たちから脱退者が出はじめた。

それに続いて教団内の信者虐待が激しくなったため、さらに脱退者が続出した。

ジム・ジョーンズ     
元信者でジムの元愛人であったグレース・ストーンが、教団の実体を告発したのをきっかけに、マスコミの激しい攻撃が始まる。それに追い討ちをかけるように、 元信者からの告訴や、信者が集団で脱走しアメリカ領事館に保護を求めるといった不祥事が続発した。

また多くの元信者たちから洩れた証言で告発記事が次々に発表され、マスコミや大衆は一転してアンチ・ジョーンズ派に転じ、彼を非難しはじめた。

   
アメリカ本土では、彼らを黙って放っておくわけにはいかないところまできていた。

カリフォルニア州選出のライアン議員のもとには、人民寺院の信者の家族や元信者たちから、「ガイアナの人民寺院の内部を捜査してほしい」、「教祖からひどい目にあわされているという肉親を取り戻してほしい」という請願書が続々と寄せられていたのだ。

ライアン議員はついに視察団と共にガイアナへ行くことを決定した。

すべてのコマが惨劇の終末に向かって進みはじめた。

 

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※写真引用元: npr  http://www.npr.org/    Alessia Home Page  http://alessiaguidi.provocation.net/    The Levels of Human Experience http://www.arachnoid.com/levels/jonestown.jpg  

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