1865年4月3日 ― アメリカ南部の首都・リッチモンドが陥落。
その9日後の4月12日に降伏調印が行われた。
国を二分して繰り広げられた南北戦争は終結し、アメリカはまた一つの国家に戻った。
● 奇妙な予定変更と謎 ●
1865年4月14日 ― この日は、南部を降伏させ北部を勝利に導いた北軍指揮官・グラント将軍がワシントンに帰還した日であった。 この夜のリンカーン大統領の予定は、このグラント夫妻と“グローバー劇場”で観劇するというものだったが、当日になってちょっとした変更がなされるのだ。
@ 上演される劇場が“フォード劇場”に変更された。
しかし、どういう理由で変更になったのか、誰が変更を指示したのか、未だに分かっていないのだ。
A 当日夕方になって、同行するはずのグラント将軍にメモが届けられた。 その時、大統領もその場に一緒にいたという。 将軍は黙ってメモを読んだあと、「子供に会いにいくので6時の汽車で発たなければなりません。申し訳ありませんが、今夜は同行できなくなりました」と、大統領にドタキャンする旨を告げたのだ。
(※右の写真はユリシーズ・シンプソン・グラント将軍。彼はのちに第18代アメリカ大統領となる)
彼ほどの軍人が「子供に会う」という理由で大統領との予定をドタキャンするとは考えにくい。
これには大統領も驚いて、「明日では駄目なのか?」と引き止めたが、グラント将軍は聞き入れなかった。 しかし、これには疑問が残る。 彼が6時に乗った列車というのは夜中に二度も乗り換えなくては現地に着けない各駅停車であり、翌朝早くの急行に乗ったほうが早く着けたというのだ。
このグラント将軍のドタキャンは、今日でも事件最大の謎の一つだといわれている。
― 彼が受け取ったメモには一体何が書かれていたのだろう?
仕方がないので、リンカーン大統領は護衛役として、まだ若いヘンリー・ラスボーン少佐とフィアンセのクララを同行することにした。
B “フォード劇場”のオーナーは、大統領夫妻の来場に歓喜した。 そして、劇場2階のバルコニー席7〜8号を用意したのだが、このオーナーは大統領夫妻の来場に少々浮かれすぎて、うっかりしたのかもしれない。 そうでなければ、このバルコニー席の欠陥を知らなかったのかもしれない。
7号室のドアには、ちょうど目の高さに奇妙な覗き穴があり、8号室のドアの鍵は壊れていたのだから。 彼はセキュリティー面で致命的な欠陥のある席に大統領一行を案内したのだ。
C 当日、7〜8号室の警備を担当した警官はたった一人だった。 しかも、警備を任されたのは、ジョン・パーカーという35歳の飲んだくれ警官だった。 彼は平素から問題のある男で、酔っ払って銃を発砲したり、飲んだくれては職務を放棄するようなトンデモない警官だったという。(何度か告発されているが、不思議なことに一度も罪にならずに釈放されていた)
そんな男をたった一人で大統領の警護に当たらせること自体、普通なら違和感をおぼえるところだが、誰も異論を唱えなかったのだろうか? 事実、この男がドアの前で警備したのは、劇が始まるまでのほんの2、3分だったという。 彼は、劇が始まるとすぐに劇場から出て隣のバーに行ってしまったのだ。
● もう一人いた?! ●
事件当日、大統領のバルコニー席にいたのは、リンカーン夫妻とラスボーン少佐、そして、婚約者のクララの合計4人だけということになっていたが、実は、リンカーンの従者・チャールズ・フォーブスもいたことが判明したという。
しかし、このフォーブスは事件後の裁判で一度も証人として喚問されていない。 事件から27年後の1892年になって初めて表面化した人物である。 彼がリンカーンのバルコニー席にいたことを裏付ける事実がある。 暗殺事件の2ヵ月後、『ナショナル・リパブリカン』誌の編集長・ハンスコム氏が「私は事件の直前にリンカーン大統領のバルコニー席を訪ねた」と告白しているのだ。
ハンスコム氏がリンカーン大統領のバルコニー席を訪れたのは、ホワイトハウスから託されたメッセージを届けるためだったという。 ハンスコム氏が訪れた時、すでに警備員のジョン・パーカーはドアの前におらず、代わりに従者のフォーブスがいたので、彼にメッセージを手渡したというのだ。
そして、そのことは二人の目撃者によって証明されている。
ハンスコム氏がそこを訪れる時、2階の特等席の客二人に椅子を寄せてもらい、その脇を通っていった。 その際、ハンスコム氏が大統領の席はどこかと尋ねていたのを、観客としてその場に居合わせたクロフォード中尉とマクゴワン大尉の二人が記憶しており、この二人は事件直後にスタントン陸軍長官にこのことを報告していたのだ
しかし、奇妙なことに、この二人は裁判になるとその発言をひるがえし、ハンスコム氏のことには、以後一切触れようとしなかったのである。
ホワイトハウスから託されたメッセージが従者・チャールズ・フォーブスから大統領の手に渡った形跡はないという。 一体、何が書かれていたのだろう?
● 暗殺劇の一部始終 ●
劇の第三幕目が終盤に近づいた頃、犯人のジョン・ウィルクス・ブースは、なんの障害もなく楽々と2階の大統領がいるバルコニー席に侵入した。 ブースは侵入すると同時に、至近距離から大統領の後頭部(左耳の後ろ5pのところ)めがけて弾丸を撃ち込んだ。
すぐそばにいたラスボーン少佐は、その時のことをのちにこう証言している。
「私が舞台に見入っていると、突然背後で銃声がしました。驚いて振り向くと、硝煙の中に一人の男が立っているのが見えたのです」
ラスボーン少佐は、とっさに犯人にとびかかったが、ナイフで腕を切られてしまった。 それでも犯人を逃がすまいとしがみついたが、犯人は「南部の復讐だ!」と叫んで、2階のバルコニー席から1階の舞台へと飛び降りた。
1階にいた観客たちは、一発の銃声のあとで血まみれのナイフを持った男が飛び降りたのを見て、一瞬、劇の一部かと思ったが、ラスボーン少佐が2階席から身を乗り出して、「その男を捕まえろ!」と叫んだので、やっと事態に気付いて全員総立ちになったという。(※下の画像は現在博物館として保存されているフォード劇場。写真中央が舞台で、向かって右側 のリンカーン一行が座っていたバルコニー席には、アメリカ国旗と共に彼の写真が掲げられている)

異常な事態に劇場内は騒然となった。 2階から飛び降りた際に犯人は足をくじいたらしく、びっこをひいていたのを大勢に目撃されている。 観客の一人はとっさに犯人の後を追ったが、犯人は舞台の端まで走りぬけ、舞台横のドアから外に出て、そこに用意してあった馬に乗って逃げてしまった。
医師が駆けつけた時、リンカーンの心臓はまだかろうじて動いていたが、命が助かる見込みは絶望的だった。 そして意識不明のまま、1865年4月15日午前7時22分に息を引きとったのである。
リンカーンが撃たれた時刻もまた謎のひとつとされており、その時刻はPM10:13ともPM11:17ともいわれている。 1時間も誤差が生じるのはどういうことだろう?
● 実行犯 ジョン・ウィルクス・ブース ●
ジョン・ウィルクス・ブースは、もとはアメリカ・メリーランド州出身の売れない俳優だった。
当時すでに他界していた彼の父親は、ロンドンで指折りの有名なシェイクスピア俳優だったという。
犯行当時26歳だったブースは、狂信的な南部独立派で、南部を敗北に追いやった北部のリンカーン大統領を恨んでの犯行だというのが定説になっている。
(※右の写真:ジョン・ウィルクス・ブース)
ブースは犯行後、馬に乗ってネイビー・ヤード橋まで一目散に逃走している。 南北を分ける国境ともいえるネイビー・ヤード橋を超えると安全な南部圏に入れるのだ。 しかし、当時その橋は夜9時以降は通行できない規則になっていた。 犯行直後だったため、大統領暗殺の訃報はまだ橋まで知れ渡っていなかったが、橋の屯所に詰めていたコップ軍曹は、規則の夜9時を過ぎて橋を渡ろうとするブースをしばらく引き止めて注意をしたのを憶えていた。 ブースが「家に帰る途中ですが、用事でつい手間取ってしまって...」と素直に謝るので、説教をして解放してやったという。
● スタントン長官の捜査撹乱疑惑 ●
暗殺犯の捜査を指揮したのは、先にも名前が出てきたスタントン陸軍長官である。 このスタントン陸軍長官の動きには、実に不可解な点が多いといわれている。
@ 犯人の素性や動機などから、当時の人間なら犯人がリッチモンドに向かって逃げることは容易に推測できたはずなのに、彼が警戒態勢をとるよう最初に指示したのは、皆、北方の騎兵部隊であり、北部の占領地域のパトロール及び警備の強化だった。 もたもたした挙句、東、西、南部へは、犯人がある程度逃げおおせたと思われる真夜中になってからやっと指令を出しているのだ。
A 多数の観客の目撃情報があるにもかかわらず、スタントン長官がブースを犯人だと認定したのは、事件から5時間もたってからだった。 しかも、どうしたことか、スタントン長官は全然別の男の写真を配布してしまう。 どうやらこの暗殺にかかわった人達にはうっかり者が多いようだ。
このスタントン長官のうっかりにより、追跡隊が犯人を追い詰めたのは事件から12日も経った後だった。
● 追跡隊の不可解な行動 ●
追跡隊が捜索していく内に、犯人は単独犯でないことが分かり、犯人一味の逃亡を助けたと思われる南部同盟のジェットという男の存在も突きとめた。
コンガー中佐とベイカー中尉以下、約30名からなる犯人追跡隊に追い詰められたジェットは観念して、犯人の隠れ家であるギャレッツ牧場へ案内した。 彼らが牧場に着くと、やはり隠し切れないと悟った牧場主の息子が「納屋にブースを含む二人の犯人が隠れている」と正直に答えた。
追跡隊は納屋を包囲し、中の二人に向かって降伏して出てくるよう、こう呼びかけた。
「この男(牧場主の息子)を中に入れるから、彼に武器を渡して出てくるんだ。出てこない時は納屋に火を放つ」
牧場主の息子が納屋に入っていった。 なにやら言い争っている様子が聞こえてきたが、しばらく経ってから一味の片割れであるハロルドが納屋から出てきた。 彼はその場で捕らえられ、逃げられないよう木に縛りつけられた。
しかし、中に残っているもう1人の方は出てくる様子がないので、コンガー中佐が納屋の後ろ側にまわって、納屋の壁板の隙間から出ている乾草に火をつけた。
それはたちまち燃え上がり、中の様子を照らし出したため、外にいた人間にも納屋の中の男が立ち上がるのが見えた。 と、その瞬間、一発の銃声が聞こえ、中の男が倒れた。
ベイカー中尉が納屋に駆け込んで男の様子を見たが、男は撃たれた時、即死したようだった。
続いてコンガー中佐も中に入ってきて「自殺したのか?!」と叫んだ。
「いや、これは自殺じゃない。あなたはなぜこの男を撃ったんです?」
遺体の状態を見て、コンガー中佐が撃ったものと思っていたベイカー中尉はそう聞いたが、コンガー中佐は、「いや、撃ったのは私じゃない」と否定した。
犯人は生きたまま連行するよう命令されていたので、とりあえず二人は、この男が自殺したのなら、これ以上事を荒立てず曖昧にしておこうという結論に至ったようだ。
各々の銃と弾丸を調べて事をハッキリさせようとは、誰も思わなかったらしい。
しかし、ブース射殺に関しては、どういうわけかまったく別の説があるのだ。
ブースを撃ったのは、宗教的狂信者のコルベット軍曹であるというのが、実は一般的な通説になっている。 しかし、現場にいた者は、それは有り得なかったというのだ。
ブースが撃たれた時、コルベット軍曹はブースから約9メートルほど離れた場所にいて、ライフルを持っていたとされているが、正面を向いていたブースが撃たれたのは首の後ろ側であり、しかも至近距離で撃たれたために銃の火薬でヤケドを負っていたというのである。
やはり撃ったのは、当時納屋の裏にいたコンガー少佐で、独断で撃ってしまった罪を部下になすりつけようとしたのだと考えるのが妥当ではないだろうか。 いずれにしても、命令に背いて犯人を射殺してしまったにもかかわらず、誰も処罰されていないのもおかしな話である。
● やっぱり変だよ スタントン ●
ブースの遺体は毛布にくるまれ、近くに停泊させてあった汽船に積み込まれた。 ブースの遺体を調べた時、彼の所持品の中から一冊の日記が出てきたのだが、この日記が二年後に事件を再び明るみに出すことになる。
のちの裁判でスタントン陸軍長官は「ブースの日記は発見されていない」と証言したが、あとになってなぜか「実は発見されていた」と言い直している。 彼はなぜ偽証などしたのだろう?
しかも、肝心の日記が法廷に提出された時、リンカーン暗殺の時期にあたる部分が24ページに渡ってきれいに破りとられていたのだ。
(※右の写真:問題の“ブースの日記”破りとられているのがわかる)
その頃から「リンカーン暗殺事件の黒幕はスタントン長官ではないのか?」と噂されるようになる。 事実、彼はリンカーンの政策に反対していたというのだ。
また、ブースの遺体は毛布に包まれ、厳重な監視のもと、砲艦“モントーク号”の甲板に置かれていたのだが、驚いたことに4月27日の真夜中、秘密警察本部長ベイカー大佐とその甥でブース追跡隊にいたベイカー中尉の二人が、モントーク号にボートで乗りつけて毛布に包まれた遺体をボートに乗せ、彼ら二人とスタントン長官しか知らない場所に運び去ったというのだ! さらにその時、ブースの着衣からなにから証拠になるような物もすべて一緒に消失したという。
翌日、それを知った国民は皆一様にあきれかえった。 彼らのした事は、証拠の私物化であり、証拠の隠蔽ともとれる常軌を逸した行動である。
国民に向かってスタントン長官は「ブースを英雄視している南部の連中が彼の墓を聖地として祭り上げるのを防ぐため、秘密裏に埋葬させた」と、なにくわぬ顔で発表したという。
これにはさすがに政府当局jも激怒した。 長官は国会の委員会さえ無視したまさに独裁者だった。
しかし、これは彼の独断で行われたことだろうか?
彼はただの傀儡で、彼に命令した黒幕がいたのではないだろうか?

のちにスタントン長官との関係が険悪になったベイカー大佐は、1867年に刊行された『特務機関の歴史』という本の中で、あの時スタントン長官の命令で、旧監獄の地下監房の床下に遺体を埋めたことを暴露している。 そこに書いてあった通りの場所で遺体は発見されたが、その遺体がブースのものであるかどうかを確かめる方法は、すでに何一つ残ってはいなかった。
また、こんな話もある。 ブースが射殺された直後、納屋からブースの遺体が運び出されるのを見たハロルドは、
「誰だこいつは?これはブースじゃない!俺はこんな男知らない!これはヤツじゃない!!」と、言い張ったというのだ。
(※写真:ジョン・ウィルクス・ブース)
ブースはうまく逃がされたのではないかといわれている。
納屋で射殺されたのは、彼の替え玉だったのでは...
ブースが射殺された4月26日以降、ブースの共謀者9名も逮捕された。
この9名は軍法会議によって裁判にかけられた。 判決は以下の通りである。
・ デービッド・ヘロルド
・ ジョージ・アッツアーロット
・ ルイス・パウエル(またはルイス・ペイン)
・ メアリー・サラットの4人が暗殺の罪で絞首刑にされた。
このメアリー・サラットはアメリカで処刑された最初の女性になった。
・ マイケル・オローリン
・ サミュエル・アーノルド
・ サミュエル・マッドの3名には終身刑が宣告された。
・ エドマン・スパングラーには6年の懲役が宣告された。
一般法廷によってその後裁判にかけられたジョン・サラットは無罪と宣告される。
有罪宣告の公平性、特にメアリー・サラットに対する暗殺の共謀への関与の程度に関しては疑問が唱えられているという。
そうして数々の謎を残しながらも大統領暗殺事件は一応の終わりを見せたのである。
この事件の翌年1866年にKKK(クー・クラックス・クラン)が誕生。以来、爆発的に南部に広がっていく。 (※クー・クラックス・クランとは、アメリカの白人至上主義団体の一つで、KKKと略されることが多い。早い話が性根の腐った差別団体である)
● 暗殺に関わった人々を襲った不幸 ●
〔 故大統領の妻・リンカーン夫人 〕
夫を目の前で射殺されて以来発狂し、長期間精神病院で療養したが、二度と正気に戻ることはなかった。
(※ちなみに、現在リンカーンの子孫は存在しないが、リンカーンの母ナンシーの子孫に俳優のトム・ハンクスがいる)
〔 ラスボーン少佐 〕
事件当日、大統領に同行したラスボーン少佐は、その数年後に発狂した。婚約者のクララと結婚して子供をもうけたが、ある日突然妻を殺害し、子供達と心中を図ったが死にきれず、その後は精神病院に監禁されたままで生涯を送った。
〔 スタントン長官 〕
彼の横暴な振る舞いは国会から猛烈に非難され、(当たり前のことだが) 陸軍長官を退かざるおえない立場に追いやられた。 その後はみるみる健康を害していき、人前にも姿を見せなくなった。 人々は彼は気が狂ったのだと噂していたという。 以後、あっけなくこの世を去ったのだが、それも自殺だったのではないかと噂されている。
〔 コルベット軍曹 〕
当時、納屋でブースを射殺したといわれるコルベット軍曹は、その功績で懸賞金を手にしたが、しばらくして発狂した。 以後、生涯を精神病院で送ったという。
これらの発狂者の異常な出現率については、偶然ではなく人為的に仕組むことも可能だという。
村上龍の小説 愛と幻想のファシズム〈上〉 愛と幻想のファシズム〈下〉 を読むと、フィクションながらもゾッとする記述が出てくるので、興味のある方はどうぞ。
● 奇怪な事実 ●
リンカーン暗殺事件の中で最も奇怪なのは、大統領暗殺以前にすでにアメリカ各地で「大統領が殺された」というニュースが伝えられていたことだ。
@ ミネソタ州 セントジョセフでそのニュースが囁かれたのは、事件が起きる14時間も前だった。
A ニューハンプシャー州では、事件当日の朝、すでに大統領死亡説が広がっていた。
B ニューヨーク州では、なんと事件当日の朝刊に「大統領暗殺」の記事が発表されていた。
これらについては真実だが、もともとのニュースの出所については未だ謎に包まれたままである。
● 後日談 ●
リンカーンの息子のロバート・トッド・リンカーンは、父・エイブラハムからの手紙を何通か焼却処分している。 その手紙には何が書かれていたのかと尋ねると、彼は笑ってこう言ったという。
「手紙は、父の暗殺に関与した、ある人物に関係するものでした。 その人物は、父の内閣の官僚の一人でした。 でも、いまさら公表したところで誰の得にもなりません」
暗殺の直前にリンカーンが「私に関する暗殺の噂を聞いていないかね?」と、側近の一人に尋ねたという話が残っている。 彼には、自分を殺そうとしている人物が誰なのかわかっていたのかもしれない。

第16代アメリカ大統領 エイブラハム・リンカーン
1809年2月12日〜1865年4月15日 享年 56歳
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アメリカのある調査によると、リンカーン暗殺事件以来、死の直前に
「実は、俺があのブースなんだよ」と告白した人間は40人以上にも及ぶという |
参考文献: リンカーン暗殺事件 アンビリーバブル物語
リンカーン狙撃が日本人説―真実を追及ウソ・ホント
世界史ミステリー事件の真実―歴史の闇に葬られた未解決事件を追う
迷宮への招待 世界史15の謎